でそれが現在の戸隠山《とがくしやま》になったという話も、やはり火山爆発という現象を夢にも知らない人の国には到底成立しにくい説話である。
 誤解を防ぐために一言しておかなければならないことは、ここで自分の言おうとしていることは以上の神話が全部地球物理学的現象を人格化した記述であるという意味では決してない。神々の間に起こったいろいろな事件や葛藤《かっとう》の描写に最もふさわしいものとしてこれらの自然現象の種々相が採用されたものと解釈するほうが穏当であろうと思われるのである。
 高志《こし》の八俣《やまた》の大蛇《おろち》の話も火山からふき出す熔岩流《ようがんりゅう》の光景を連想させるものである。「年ごとに来て喫《く》うなる」というのは、噴火の間歇性《かんけつせい》を暗示する。「それが目は酸漿《あかかがち》なして」とあるのは、熔岩流の末端の裂罅《れっか》から内部の灼熱部《しゃくねつぶ》が隠見する状況の記述にふさわしい。「身一つに頭《かしら》八つ尾八つあり」は熔岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流するさまを暗示する。「またその身に蘿《こけ》また檜榲《ひすぎ》生《お》い」というのは熔岩流の表
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