ない。それにしてもほんとうによい美しいすぐれた花なら、少なくもそういう花を捜して歩いている人の目にいつかは触れないものだろうか。危険を冒して懸崖《けんがい》にエーデルワイスを捜す人もある。昼|提灯《ちょうちん》をさげて人を捜した男もあったのである。
しかしこれはあまりに消極的な考えかもしれない。自分はここでそういう古い消極的な独善主義を宣伝しようというのではない。また自然の野山に黙って咲く草木の花のように、ありとあらゆる美しい事、善《よ》い事が併立して行かれないからと言って、そのためにこの世をはかなんで遁世《とんせい》の志をいだくというわけでもない。
宣伝が理想的に行なわれて天下を風靡《ふうび》する心配がないからこそ世に宣伝という事がいつまでも行なわれている。宣伝の必要のあるというのは、つまりその事がらがどこか偏頗《へんぱ》であり、どこか無理がある事を証明するのだとすれば、結局宣伝というものは別に恐ろしいものでもなんでもなくなるわけである。むしろ適当な程度の宣伝が各方面からせり上げてそのすべての合力《レザルタント》によって世の中が都合よく正当な軌道を運転して行くのかもしれない。ある
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