らまじめなものでないから、どちらがどうなっても問題にならない。どんなに弊害があっても、人の心の奥にまで食い込む心配は少ない。
これに反してもっとまじめで真剣なだけにいちばん罪の深い人間的な宣伝の場合と思われるのは、避くべからざる覊絆《きはん》によって結ばれた集団の内部で、暗黙のうちに行なわれる、朋党《ほうとう》の争いである。たとえば昔あったような姑《しゅうとめ》と嫁の争いである。姑は「姑」を宣伝し、嫁は「嫁」を宣伝するために、一家に風波が立つ。双方互角である場合はまだ幸いである。いずれか一方の勢力がまされば禍《わざわい》である。同じような事は、違った人生観や社会観を持った人々の群れの間に行なわれる。いずれも一つの善《よ》い事を宣伝せんために他の善い事の存在を否定するから起こる。困った事にはそれがどちらも善い事なのである。そしてそれを融和すべき相対原理がまだ認められない事である。
「桃や李《すもも》は、物を言わないのに木陰にはひとりでに道ができる。」昔の人はこんな事を言って侵略的宣伝を否定した。しかし今のように桃や李の数がふえてしまっては、この言葉はほんとうに時代遅れになったのかもしれ
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