彫の竜の眼が光っていた。
いつか信さんの部屋へ遊びに行った時、見馴れぬ絵の額がかかっていた。何だと聞いたら油画《あぶらえ》だと云った。その頃田舎では石版刷の油画は珍しかったので、西洋画と云えば学校の臨画帖より外には見たことのない眼に始めてこの油画を見た時の愉快な感じは忘られぬ。画はやはり田舎の風景で、ゆるやかな流れの岸に水車小屋があって柳のような木の下に白い頭巾をかぶった女が家鴨《あひる》に餌でもやっている。何処《どこ》で買ったかと聞いたら、町の新店にこんな絵や、もっと大きな美しいのが沢山に来ている、ナポレオンの戦争の絵があって、それも欲しかったと云う。
家へ帰って夕飯の膳についても絵の事が心をはなれぬ。黄昏《たそがれ》に袖無《そでなし》を羽織って母上と裏の垣で寒竹筍《かんちくたけのこ》を抜きながらも絵の事を思っていた。薄暗いランプの光で寒竹の皮をむきながら美しい絵を思い浮べて、淋しい母の横顔を見ていたら急に心細いような気が胸に吹き入って睫毛《まつげ》に涙がにじんだ。何故泣くかと母に聞かれてなお悲しかった。そんなに欲しくば買って上げる。男のくせにそんな事ではと諭《さと》されて更にし
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