ゃくり上げた。母は虫抑えの薬を取り出して呑ませてくれたがあの時の自分の心は今でも説明は出来ぬ。幼く片親の手一つで育ってあまり豊かでない生活が朧げに胸にしみ浮世の木枯しはもう周囲に迫っていたから、何かの刺戟はすぐに訳のわからぬ悲しみを誘うたのだ。
 あくる日|銭《ぜに》を貰うて先ず学校へ行ったが、教場でも時々絵の事に心を奪われ、先生に何か聞かれても何を聞かれたか分らぬような事もあった。放課のベルを待ち兼ねて学校を飛出し、信さんに教わった新店を尋ねたら、すぐにわかった。店へはいると一面に吊した絵のニスの香に酔うてしまう。あれも好い。これも気に入った。鍛冶屋《かじや》の煙突から吹き出る真赤な焔が黒い樹に映えて遠い森の上に青い月が出ている絵も欲しかったが、何となく静かなこの「森の絵」にきめた。粗末な額縁をはめてもらってその上を大事に新聞で包んで店を出た時は、心臓が高い音を立てて踊っていた。
 帰り途に旧城の後ろを通った。御城の杉の梢は丁度この絵と同じようなさびた色をして、お濠《ほり》の石崖の上には葉をふるうた椋《むく》の大木が、枯菰《かれこも》の中のつめたい水に影を落している。濠に隣《とな》っ
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