これらの絵の事は実際にもう長い間自分の識域の底深く沈んでいたのであった。神田《かんだ》の夜店の木枯らしの中に認めたこの青衣少女の二重像《ドッペルゲンガー》はこのほとんど消えてしまっていた記憶を一時に燃え上がらせた。少女は四十年前と同じ若々しさ、あどけなさをそのままに保存してエメラルド色のひとみを上げて壁間の聖母像に見入っているのである。着物の青も豊頬《ほうきょう》の紅も昔よりもかえって新鮮なように思われるのであった。
 ただ一瞥《いちべつ》を与えただけで自分は惰性的に神保町の停車場まで来てしまった。この次に見つけたらあれを買って来るのだと思いついた時には、自分をのせた電車はもう水道橋《すいどうばし》を越えて霜夜の北の空に向かって走っていた。昔のわが家の油絵はどうなったか、それを聞き出す唯一の手がかりはもう六年前になくなった母とともに郷里の久万山《くまやま》の墓所の赤土の中にうずもれてしまっているのであった。
 その後おりおり神保町の夜店をひやかすようなときは、それとなく気をつけているが、この青衣少女にはめぐり会わない。夏がやって来た。夕方浴後の涼風を求めて神田の街路をそぞろ歩きするたび
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