い。
『武家義理物語』の三の一に「すこしの鞘《さや》とがめなどいひつのり、無用の喧嘩を取むすび、或は相手を切りふせ、首尾よく立のくを、侍の本意のやうに沙汰せしが、是ひとつと道ならず。子細は、其主人、自然の役に立《たて》ぬべしために、其身相応の知行《ちぎょう》をあたへ置れしに、此恩は外にないし、自分の事に、身を捨るは、天理にそむく大悪人、いか程の手柄すればとて、是を高名とはいひ難し」とはっきりした言葉で本末の取りちがえを非難している。してみると、これらの武家物は決してかくのごとき末世的武士道を礼讃し奨励するつもりではなく、反対にその馬鹿らしさを強調し諷諌するような心持が多分にあったのではないかとも想像される。しかしまた、西鶴のような頭のいい観察者が、真の武士道の中の美点をも認めることが出来なかったとは想像されない。そうした例も実際捜せばところどころには散在するのである。
 それはいずれにしても、武士道というものに対しても西鶴が独自の見解をもっていて、その不合理と矛盾から起る弊害を指摘する心持があったであろうという想像は、マテリアリストとしての彼の全体から判断し推測してそれほど無稽なものではないと思われるのである。
 恋愛に関する西鶴の考えにもかなり独自なものがあり、伝統的な性の道徳に批判的の眼を向けていたように思われる。その一例とも見られるのは、『諸国咄』の中の「忍び扇の長歌《ながうた》」に、ある高貴な姫君と身分の低い男との恋愛事件が暴露して男は即座に成敗され、姫には自害を勧めると、姫は断然その勧告をはねつけて一流の「不義論」を陳述したという話がある。その姫の言葉は「我《われ》命をおしむにはあらねども、身の上に不義はなし。人間と生を請て、女の男只一人持事、是作法也。あの者|下/″\《したじた》をおもふは是縁の道也。おの/\世の不義といふ事をしらずや。夫ある女の、外に男を思ひ、または死別れて、後夫《ごふ》を求るとて、不義とは申べし。男なき女の、一生に一人の男を、不義とは申されまじ。また下/″\を取あげ、縁をくみし事は、むかしよりためし有。我すこしも不義にはあらず、云々」というのである。現代ならかなり保守的な女学者でも云いそうなことであるが、ともかくもこれは西鶴自身の一種の自由恋愛論を姫君の口を借りて言明したものであることには疑いは無いであろう。それは当代にあってはずいぶんラジカルな意見であろうと思われる。
 彼の好色物に現われた性生活の諸相の精細な描写記録は、この人間界の最も深刻な事実を事実として客観的に集輯したものであるには相違ないが、彼がそういうものを著述する際における彼の態度が、果して動物の観察者が動物の生活を記載する場合と同じものであったかどうかは疑問である。勿論、大衆読者というものを意識していることは云うまでもないことであるが、しかし、もしも彼の中に伝統的な恋愛道徳観が強烈に活きてはたらいていたら、こういう、当時としては破天荒なものを書く気にはなれなかったであろうと想像される。そういう方向から見ると、西鶴は当代としては非常に飛び離れた性道徳観の信奉者であったと思われないこともない。少なくも、恋愛の世界を勧善懲悪の縄張りから解放すべきものと考えていたのではないかと思われるふしが少なくないのである。
 これらの武士道観、恋愛観は、ある意味からともかくも唯物論的な西鶴の立場を窺わせる窓口となるものでないかと思われる。
『永代蔵』中に紹介された致富の妙薬「長者丸」の処方、『織留』の中に披露された「長寿法」の講習にも、その他到る処に彼一流の唯物論的処世観といったようなものが織り込まれている。
 これらは、西鶴一流とは云うものの、当時の日本人、ことに町人の間に瀰漫《びまん》していて、しかも意識されてはいなかった潜在思想を、西鶴の冷静な科学者的な眼光で観破し摘出し大胆に日光に曝したものと見ることは出来よう。もしもそうでなかったらいかに彼の名文をもってしても、書肆《しょし》の十露盤《そろばん》に大きな狂いを生じたであろうと思われる。

 要するに西鶴が冷静|不羈《ふき》な自分自身の眼で事物の真相を洞察し、実証のない存在を蹴飛ばして眼前現存の事実の上に立って世界の縮図を書き上げようとしている点が、ある意味で科学的と云っても大した不都合はないと思われる。
 科学者にも色々の型がある。馬琴型の立派な科学者も決して稀ではない。いわゆるアカデミックな学界の権威にはこの型が多い。しかしまた一方で西鶴型の優れた科学者も時に出現し、そうしてそういう学者の中に往々劃期的な大発見、破天荒の大理論を仕遂げる人が生まれるようである。科学全体としての飛躍的な進歩はただ後者によって成さるると云っても過言ではない。
 西鶴を生んだ日本に、西鶴型の科学者の出現を望むの
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