たり読経《どきょう》したりする中に小唄を歌うのや化物《ばけもの》のまねをして人をおどすのがあったりするのも面白い。その外にも、例えば「人の刃物を出しおくれ」「仕《し》もせぬ事を隠しそこなひ」のような諸篇にも人間の機微な心理の描写が出ている。「白浪のうつ脈取坊」には犯罪被疑者がその性情によって色々とその感情表示に差違のあることを述べ「拷問」の不合理を諷諌《ふうかん》し、実験心理的な脈搏の検査を推賞しているなども、その精神においては科学的といわれなくはないであろう。「小指は高くゝりの覚」で貸借の争議を示談させるために借り方の男の両手の小指をくくり合せて封印し、貸し方の男には常住坐臥不断に片手に十露盤《そろばん》を持つべしと命じて迷惑させるのも心理的である。エチオピアで同様の場合に貸し方と借り方二人の片脚を足枷《あしかせ》で縛り合せて不自由させるという話と似ていて可笑しい。また有名な「三人一両損」の裁判でもこれを西鶴に扱わせるとその不自然な作り事の化けの皮が剥がれるから愉快である。勿論これらの記事はどこまでが事実でどこからが西鶴の創作であるかは不明であるが、いずれにしてもこれらの素材の取扱い方に著者の心理分析的な傾向を認めても不都合はないはずであろうと思われる。
 これらの心理的写実を馬琴や近松のそれと比べてみると後者の不自然さが目立って来るようである。後者等は大体において人間心理を伝統的理想の鋳型に嵌《は》めて活動させているとしか思われないのに反して、西鶴だけは自分自身の肉眼で正視し洞察し獲得した実証的素材を赤裸々に記録している傾向がある。
 西鶴の人間に関する観察帰納演繹の手法を例示するものとしてはまた『織留』中の「諸国の人を見しるは伊勢」に、取付虫《とりつきむし》の寿林《じゅりん》、ふる狸《だぬき》の清春《せいしゅん》という二人の歌比丘尼《うたびくに》が、通りがかりの旅客を一見しただけですぐにその郷国や職業を見抜く、シャーロック・ホールムス的の「穿《うが》ち」をも挙げておきたい。
 科学者としても理論的科学者でなくてどこまでも実験的科学者であった西鶴が、また人間の経験の習熟練磨の効果を尊重したのは当然のことである。そうした例としては『諸国咄』中の水泳の達人の話、蚤虱《のみしらみ》の曲芸の話、また「力なしの大仏」の色々の条項を挙げることが出来る。『桜陰比事』の「四つ五器《ごき》かさねての御意」などもそうした例であると同時に、西鶴の実証主義を暗示するものと見られる。
 彼の実証主義写実主義の現われとしてその筆によって記録された雑多の時代世相風俗資料は近頃ある人達の称える「考現学的」の立場から見て貴重な材料を供給するものであることは周知なことである。例えば当時の富人の豪奢の実況から市井裏店《しせいうらだな》の風景、質屋の出入り、牢屋の生活といったようなものが窺われ、美食家や異食家がどんなものを嗜《たしな》んだかが分かり、瑣末《さまつ》なようなことでは、例えば、万年暦、石筆(鉛筆か)などの存在が知られ、江戸で蝿取蜘蛛《はえとりぐも》を愛玩した事実が窺われ、北国の積雪の深さが一丈三尺、稀有の降雹《こうひょう》の一粒の目方が八匁五分六厘と数字が出ている。好色物における当時の性的生活の記録については云うも管《くだ》であろう。
 実証的な西鶴のマテリアリズムは彼の「町人もの」の到る処に現われているのであるが、『永代蔵』にある「其種なくて長者になれるは独りもなかりき」という言葉だけからもその一端を想像される。彼は興味本位の立場から色々な怪奇をも説いてはいるが、腹の中では当時行われていた各種の迷信を笑っていたのではないかと思われる節もところどころに見える。『桜陰比事』で偽山伏を暴露し埋仏詐偽の品玉を明かし、『一代男』中の「命捨ての光物」では火の玉の正体を現わし、『武道伝来記』の一と三では鹿嶋の神託の嘘八百を笑っている。
 この迷信を笑う西鶴の態度は翻って色々の暴露記事となるのは当然の成行きであろう。例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の臍《へそ》を撚《よ》り、『一代女』には自堕落女のさまざまの暴露があり、『一代男』には美女のあら捜しがある。
 このような批判の態度をもって西鶴が当時の武士道の世界を眺めたときに、この特殊な世界が如何に不合理に見えたかということは想像するに難くないのである。由来西鶴の武家物は観察が浅薄であり、要するに彼は武士というものに対する認識を欠いていたというのが従来の定評のようで、これも一応尤もな考え方であると思うが、しかしこれについて多少の疑いがないでもない。『武道伝来記』に列挙された仇討物語のどれを見ても、マテリアリストの眼から見た武士|気質《かたぎ》の不合理と矛盾の忌憚《きたん》なき描写と見られないものはな
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