西鶴と科学
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日本永代蔵《にっぽんえいたいぐら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一生|秤《はかり》の皿の中を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年一月、改造社『日本文学講座』)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おの/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 西鶴の作品についてはつい近年までわずかな知識さえも持合せなかった。ところが、二、三年前にある偶然な機会から、はじめて『日本永代蔵《にっぽんえいたいぐら》』を読まなければならない廻り合せになった。当時R研究所での仕事に聯関して金米糖《こんぺいとう》の製法について色々知りたいと思っていたところへ、矢島理学士から、西鶴の『永代蔵』にその記事があるという注意を受けたので、早速岩波文庫でその条項を読んでみた。そのついでにこの書のその他の各条も読んでみるとなかなか面白いことが沢山にある。のみならず、自分がこれまでに読んだ馬琴《ばきん》や近松や三馬《さんば》などとは著しく違った特色をもった作者であることが感ぜられた。そうしてこれを手始めに『諸国咄《しょこくばなし》』『桜陰比事《おういんひじ》』『胸算用《むねさんよう》』『織留《おりとめ》』とだんだんに読んで行くうちに、その独自な特色と思われるものがいよいよ明らかになるような気がするのであった。それから引続いて『五人女』『一代女』『一代男』次に『武道伝来記』『武家義理物語』『置土産』という順序で、ごくざっと一と通りは読んでしまった。読んで行くうちに自分の一番強く感じたことは、西鶴が物事を見る眼にはどこか科学者の自然を見る眼と共通な点があるらしいということであった。そんなことを考えていた時にちょうど改造社の『日本文学講座』に何か書けという依頼を受けたので、もし上掲の表題でも宜しければ何か書いてみようということになった。云わば背水陣的な気持で引受けた次第である。そんな訳であるから、この一篇は畢竟《ひっきょう》思い付くままの随筆であって、もとより論文でもなく、考証ものでもなく、むしろ一種の読後感のようなものに過ぎない。この点あらかじめ読者の諒解《りょうかい》を得ておかなければならないのである。
 西鶴の人についてもあまりに何事も知らな過ぎるから、この際の参考のためにと思って手近にあった徳富氏著『近世日本国民史、元禄時代』を見ていると、その中に近松と西鶴との比較に関する蘇峰氏の所説があって、その一説に「西鶴のその問題を取扱うや、概して科学者の態度だ。すなわち実験室において、南京《なんきん》兎を注射するごとく、もしくは解剖室において、解剖刀を揮《ふる》うがごとくであった、云々」というのがあり、また「西鶴は検事でなければ、裁判官だ。しかも近松は往々弁護料を要求せざる、名誉弁護者の役目を、自ら進んで勤めている」というのがある。そうしていろいろの具体的の作品に関して西鶴近松両者の詳細な比較論がしてある。
 この所説を見ても西鶴の態度を科学的と見るという見方はおそらく多くの人に共通な見方であって自分が今ここに事新しく述べるまでもないことかも知れないであろうが、ただ自分が近頃彼の作品を乱読しているうちに特に心付いた若干の点を後日の参考また備忘のために簡単に誌《しる》しておきたいと思った次第である。

 第一に気の付く点は、西鶴が、知識の世界の広さ、可能性の限界の不可測ということについて、かなりはっきりした自覚をもっていたと思われることである。この点もまたある意味において科学的であると云われなくはない。
 科学者は実証なき何物をも肯定しないと同時に、不可能であると実証されない何物の可能性をも否定してはならないはずである。尤も科学者の中には往々そういう大事な根本義を忘れて、自分の既得の知識だけでは決して不可能を証明することの出来ない事柄を自分の浅はかな独断から否定してしまって、あとでとんだ恥をかくという例もあえて稀有ではない。こうした独断的否定はむしろ往々にしていわゆる斯学《しがく》の権威と称せられまた自任する翰林院《かんりんいん》学者に多いのである。例えばダイナモの発明に際してある大家がその不可能を論じたにかかわらず電流が遠慮なく流れ出したのは有名な話である。また若い学士が申出したある可能現象の実験的検査をその先生の大家が一言の下に叱り飛ばしたのが、それから数年の後に国外の学者によってその若い学士によって予測された現象の実在が証明されたというようなことも適《たま》にはあるようである。
 しかるに、西鶴はその著書中にしばしば「世界の広さ」という言葉を繰返している。狭
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