い国土の中に限られた経験だけから帰納して珍稀と思われるものの存在を否定してはいけないということを何遍となく唱えている。先ず『諸国咄』の序文に「世間の広き事国々を見めぐりてはなしの種をもとめぬ」とあって、湯泉に棲む魚や、大蕪菁《おおかぶら》、大竹、二百歳の比丘尼《びくに》等、色々の珍しいものが挙げてある。中には閻魔《えんま》の巾着《きんちゃく》、浦島の火打箱などといういかがわしいものもあるにはあるのである。また『諸国咄』の一項にも「おの/\広き世界を見ぬゆへ也」とあって、大蕪菜《おおかぶな》、大鮒《おおふな》、大山芋などを並べ「遠国を見ねば合点のゆかぬ物ぞかし」と駄目をおし、「むかし嵯峨《さが》のさくげん和尚の入唐《にっとう》あそばして後、信長公の御前《ごぜん》にての物語に、りやうじゆせんの御池の蓮葉《はちすば》は、およそ一枚が二間四方ほどひらきて、此かほる風心よく、此葉の上に昼寝して涼む人あると語りたまへば、信長笑わせ給へば、云々」とあり、和尚は信長の頭脳の偏狭を嘆いたとある。この大きな蓮《はす》の葉は多分ヴィクトリア・レジアの広葉を指すものと思われる。また『武道伝来記』には、ある武士が人魚を射とめたというのを意地悪の男がそれを偽りだという。それを第三者が批評して「貴殿広き世界を三百石の屋敷のうちに見らるゝ故なり。山海万里のうちに異風なる生類《しょうるい》の有まじき事に非ず」と云ったとしてある。その他にも『永代蔵』には「一生|秤《はかり》の皿の中をまはり広き世界をしらぬ人こそ口惜《くちおし》けれ」とか「世界の広き事思ひしられぬ」とか「智恵の海広く」とか云っている。天晴《あっぱれ》天下の物知り顔をしているようで今日から見れば可笑《おか》しいかもしれないが、彼のこの心懸けは決して悪いことではないのである。
 可能性を許容するまでは科学的であるが、それだけでは科学者とは云われない。進んでその実証を求めるのが本当の科学者の道であろうが、それまでを元禄の西鶴に求めるのはいささか無理であろう。
 ともかくも西鶴の知識慾の旺盛であった事は上述の諸項からも知られるが、しかし西鶴の知識慾の向けられた対象を、例えば馬琴のそれと比較してみるとそこに興味ある差違を見出すことが出来るであろう。
 江戸時代随一の物知り男|曲亭馬琴《きょくていばきん》の博覧強記とその知識の振り廻わし方は読者の周知の通りである。『八犬伝』中の竜に関するレクチュアー、『胡蝶物語』の中の酒茶論等と例を挙げるまでもないことである。しかるに馬琴の知識はその主要なるものは全部机の上で書物から得たものである。事柄の内容のみならずその文章の字句までも、古典や雑書にその典拠を求むれば一行一行に枚挙に暇《いとま》がないであろうと思われる。
 勿論、馬琴自身のオリジナルな観察も少なくはないであろうが、全体として見るときは彼の著書には強烈な「書庫の匂い」がある。その結果として、あらゆる描写記載にリアルな、生ま生ましい実感を求めることが困難である。馬琴自身の自嘲の辞と思われる文句が『胡蝶物語』にある。「そなたのやうな生物しり。……。唐山にはかういふ故事がある。……。和漢の書を引て瞽家《こけ》を威《おど》し。しつたぶりが一生の疵《きず》になつて……」というのである。
 西鶴の知識の種類はよほど変っている。稀に書物からの知識もあるが、それはいかにも附焼刃のようで直接の読書によるものと思われないのが多い。彼の大多数の知識は主として耳から這入《はい》った耳学問と、そうして、彼自身の眼からはいった観察のノートに拠《よ》るものと思われる。
 彼が新知識、特にオランダ渡りの新知識に対して強烈な嗜慾《しよく》をもっていたことは到る処に明白に指摘されるのであるが、そういう知識をどこから得たか自分は分からない。しかし『永代蔵』中の一節に或る利発な商人が商売に必要なあらゆる経済ニュースを蒐集し記録して「洛中の重宝《ちょうほう》」となったことを誌した中に、「木薬屋《きぐすりや》呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね」という文句がある。「竜の子」を二十両で買ったとか「火喰鳥の卵」を小判一枚で買ったとかいう話や、色々の輸入品の棚ざらえなどに関する資料を西鶴が蒐集した方法が、この簡単な文句の中に無意識に自白されているのではないかという気がする。
 こうした外国仕入れの知識は何といっても貧弱であるが、手近い源泉から採取した色々の知識のうちで特に目立って多いものは雑多なテクニカルな伝授もの風の知識である。例えば『永代蔵』では前記の金餅糖《こんぺいとう》の製法、蘇枋染《すおうぞめ》で本紅染《ほんもみぞめ》を模《も》する法、弱った鯛《たい》を活かす法などがあり、『織留』には懐炉《かいろ》灰の製法、鯛の焼物の速成法、雷除《かみなりよ》けの方法
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