は必ずしも空頼めでないはずであるが、ただそういう型の学者は時にアカデミーの咎《とが》めを受けて成敗される危険がないとも限らない。これも、いつの世にも変らない浮世の事実であろう。

 余談ではあるが、西鶴の文章には、例えば馬琴などと比べて、簡単な言葉で実に生ま生ましい実感を盛ったものが多い。例えば、瑣末な例であるが『武道伝来記』一の四に、女に変装させて送り出す際に「風俗を使《つかい》やくの女に作り、真紅《しんく》の網袋に葉付の蜜柑を入」れて持たせる記事がある。この網袋入りの蜜柑の印象が強烈である。また例えば『桜陰比事』二の三にある埋仏詐偽の項中に、床下の土を掘っても仏らしいものは見えず「口欠《くちかけ》の茶壷又は消炭螺《けしずみさざえ》からより外は何もなかりき」とある。こういう風に、聯想の火薬に点火するための口火のようなものを巧みに選び出す伎倆は、おそらく俳諧における彼の習練から来たものではないかと思われる。もう一つの例は『一代女』の終りに近く、ヒロインの一代の薄暮、多分雨のそぼ降る折柄でもあったろう「おもひ出して観念の窓より覗《のぞ》けば、蓮《はす》の葉笠《はがさ》を着たるやうなる子供の面影、腰より下は血に染《そ》みて、九十五、六程も立ならび、声のあやぎれもなくおはりよ/\と泣きぬ、云々」とある、これが昔おろした子供の亡魂の幻像であったというのである。実に簡潔で深刻に生ま生ましい記載である。蓮の葉はおそらく胎盤を指すものであろうか。こういう例は到底枚挙する暇のないことであろう。
 錯綜した事象の渾沌の中から主要なもの本質的なものを一目で見出す力のないものには、こうした描写は出来ないであろう。これはしかし、俳諧にも科学にも、その他すべての人間の仕事という仕事に必要なことかもしれないのである。

 西鶴についてはなお色々述べたいこともあるが、ここではただ表題に関係のあると思われる事項の略述に止めた。甚だ杜撰《ずさん》なディレッタントの囈語《たわごと》のようなものであるが、一科学者の立場から見た元禄の文豪の一つの側面観として、多少の参考ないしはお笑い草ともならば大幸である。
[#地から1字上げ](昭和十年一月、改造社『日本文学講座』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
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