い破綻《はたん》を見せるであろう。
 女形《おんながた》が女よりも女らしく、人形の女形のほうが生きた女形よりもさらに女らしいという事実にも、やはり同じような理由があるのではないか。もともと男は決して女にはなれない。それだから女形の男優は、女というものの特徴を若干だけ抽象し、そうしてそれだけを強調して表現する。無生の人形はさらにいっそう人間の女になれるはずがない。それだからさらにいっそうこれらの特徴を強調する。その不自然な強調によって「個々の女」は消失する代わりに「抽象された女それ自体」が出現するであろう。
 この抽象と強調とアクセンチュエーションは、人形の顔のみならず、その動作にも同じ程度に現われる事はもちろんである。たとえば、すすり泣く女の肩の運動でも、実際の比例よりも郭大された振幅で行なわれる。人間の役者の場合だったら、かえって滑稽《こっけい》になるだろうと思われるこの強調が、人形だときわめて自然に見える。そうして、そのすすりなきの現象が、現実以上に現実的に表現されるのである。
 人形の顔とその動作の強調の必要は、一つにはまた観客と人形との距離からも起こってくる。これと反対の場合は
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