あろうが、映画の犬だとそれがきわめて自然なことであり、その歌はほんとうに線画の犬が歌っているとしか思われない。不自然と不自然が完全に調和するのである。これも畢竟《ひっきょう》、われわれが絵の犬の声を持たない事を知っているからである。それにかかわらずわれわれの視覚からくる暗示は必然にこれが何かしら歌うべきことを要求する。そこへ響いて来る歌の声が、たとえライオンのような声であっても、それはやはりその映画の犬の歌らしくしか聞かれないであろう。映画の犬は決して犬ではないからこそこういう事が可能である。
これと連関して考えられることは、人形の顔の表情のことである。かつてどこかで、人形の顔は何ゆえにあんなにグロテスクでなければならぬかということに関する三宅周太郎《みやけしゅうたろう》氏の所論を読んで非常におもしろいと思ったことがあった。今はじめて人形芝居を実見して、なるほどと思い当たるのであった。なるほど、もしも人形の顔なりからだなりが、あまりに平凡な写実的のものであったとしたら、おそらく人形の劇的表情は半分以上消えてしまうであろうのみならず、不自然、非写実的な環境の中に孤立した写実は全く救い難
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