ったかと想像される。
 もっとも、文楽をいくらかでも理解するためには、義太夫《ぎだゆう》のわかるということが必要条件であって、義太夫を取り除いた文楽の人形芝居は意味を成さない。そうして、結城孫三郎《ゆうきまごさぶろう》やダークのマリオネット、ないしはギニョールのパンチとジュデーなどに対する独特の地位を全然喪失してしまうことは明白である。従って、チャンバレーンにも、メートル、ペリーにも、クーシューにもわからなかったこの東洋日本特産芸術が、チャップリンに完全にのみ込めようとは思われないのであるが、しかし、西洋のあらゆる芸術のうちで、文楽の人形芝居にもっとも近いものは、おそらく近ごろの芸術的映画、ことに発声映画ではないかと思われるから、その点から推して、名監督としてのチャップリンにいくぶんの期待をかけてもはなはだしい見当ちがいではないかと思われる。実際チャップリンの無声映画に現われる一つのタイプとしてのチャーリーは、あれはたしかに一つの人形であるからである。
 チャップリンよりもあるいはむしろロシアのエイゼンシュテインに文楽を見せて、そうして彼の理論に立脚した文楽論を聞く事ができたらさだめて
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