らない。これはいうまでもない事である。
 数学が一種の国語であるとしても、それはきわめて特別な国語であることには間違いない。少なくとも高等数学となると一般世人にはあまり用のないこと、あたかもサンスクリットやヘブライのようなものである。用がないから習わない、習わないからたいそうむつかしく恐ろしく近づき難いもののように思われ、従ってそれに熟達した人がたいそうえらいものに見え、それでつづられた文章がたいそうありがたいもののように見えてくる。読んでみると実はたわいのないようなくだらないものであっても尊いお経のように思われるかもしれない。そういう傾向はたしかにある。文典の巻末にある作文や翻訳の例題と同格な応用数学的論文もなくはない。
 近ごろ Heinrich Hackmann : Der Zusammenhang zwischen Schrift und Kultur in China (1928) を読んでみた。シナ人があまり漢字をだいじに育てあげたためにシナの文化が伸展しなかったというような事がおもしろく論じてある。
 現代の物理的科学は確かに数学の応用のおかげで異常の進歩を遂げた。この事
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