に代わるべき動作の言語がちゃんと備わっているのである。
 数学では最初に若干の公理前提を置いて、あとは論理に従って前提の中に含まれているものを分析し、分析したものを組み立ててゆくのであるが、われわれの言語によって考えを運んでゆく過程もかなりこれと似たところがある。もちろん、数学の公理や論理はきわめて簡単明瞭であり、使用される概念も明確に制定されているに反して、言語による思考の場合では、これらのすべてのものが複雑に多義的であるから、一見同様な前提から多種多様な結論が生まれ出るように見える。しかし実際の場合に前提の数が非常に多いから全く同一な前提群から出発するという事は実はあり得ないのである。
 それでも、二人の人間が長く共同的に生活している場合には二人の考え方が似てくる。親しい友だちどうしで道を歩いていると、二人が同時に同じ事を考える事がある。縁側で日向《ひなた》ぼっこをしている二匹のねこがどうかすると全く同じ挙動をすると同じかもしれない。してみると人間の考え方にも一定の公式のようなものがあるかもしれない。その公式からひどく離れるとばかか気違いか天才になるのかもしれない。
 こんな空想は
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