のように見える。前者には機械的な記憶などは全然不要であり、後者には方則も何もなく、ただ無条件にのみ込みさえすればよいように思われるかもしれないが、事実はいうまでもなくそう簡単ではない。
数学も実はやはり一種の語学のようなものである、いろいろなベグリッフがいろいろな記号符号で表わされ、それが一種の文法に従って配列されると、それが数理の国の人々の話す文句となり、つづる文章となる。もちろん、その言語の内容は、われわれ日常の言語のそれとはだいぶ毛色のちがったものである。しかし幾十百億年後の人間の言語が全部数学式の連続に似たものになりはしないかという空想をほんの少しばかりデヴェロープして考えてみると、この譬喩《ひゆ》が必ずしも不当でない事がわかるかと思う。
言語はわれわれの話をするための道具であるが、またむしろ考えるための道具である。言語なしに「考える」ことはできそうもない。動物心理学者はなんと教えるかしらないが、私には牛馬や鳶《とんび》烏《からす》が物を「考える」とは想像できない。考えの式を組み立てるための記号をもたないと思われるからである。聾唖者《ろうあしゃ》には音響の言語はないが、これ
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