小川を眺めていたとき丑尾さんが自分の正面に立ってしばらく自分の顔を見詰めていたようであったが、真に突然に、その可愛い両腕を左右にぱっと拡げたと思うといきなり飛びつくようにして、しっかりと自分を抱擁した、そのとき自分がそのままにじっとしていたのか、それとも急いで押しのけたか、それはちっとも記憶していない。ただ覚えているのは、丑尾さんが着古した袖無《そでなし》のちゃんちゃんを着て、頭を小《ちっ》ちゃなおちごに結《ゆ》っていたことと、それから、その日の小春の日影が実にうららかに暖かくのどかであったということだけである。この丑尾さんは、たしか自分の家がその後一時東京に移っていたその二年の間に病死してしまったので、十歳にも満たない本当に果敢《はか》ない存在ではあった。しかし自分の幼年時代の追憶の夢の舞台に登場する唯一の異性のヒロインはこのやや不器量で可哀そうな丑尾さんであったのである。
 重兵衛さんの長男楠次郎さんから自分は英語の手ほどきを教わった。これについては前に書いたことがあるから略する。楠さんは独学で法律を勉強して、後に裁判所の書記に採用された。弟妹とちがって風采もよくてハイカラでまたそ
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