で有効な道具立てでなければならない。
そう考えて来ると、第一この男が丸《まる》の内《うち》仲通《なかどお》りを歩いていて、しかもそこで亀井戸《かめいど》への道を聞くということが少し解しにくいことに思われて来る。こういう男がこの界隈《かいわい》のビルディング街の住民であろうとは思われない。いずれ芝《しば》か麻布《あざぶ》へんから来たものとすれば、たとえば日比谷《ひびや》へんで多数の人のいる所で道を聞いてもよさそうなものである。それがこのさびしい夜の仲通りを、しかも東から西へ向かって歩きながら、たまたま出会った自分に亀井戸《かめいど》への道を聞くのは少しおかしいようにも思われる。
そうは言うものの、やはり初めの仮説に基づいてもう一ぺん考え直してみると、異常な興奮に駆られ家を飛び出した男が、夜風に吹かれて少し気が静まると同時に、自分の身すぼらしい風体《ふうてい》に気がついておのずから人目を避けるような心持ちになり、また一方では内心の苦悩の圧迫に追われて自然に暗い静かな所を求めるような心持ちから、平生通ったこともないこの区域に入り込んだと仮定する。見慣れぬビルディング街の夜の催眠術にかかっ
前へ
次へ
全20ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング