返してみる。薄情冷酷と云うではないが、苦《にが》い思いや鋭い悲しみも一日経てば一日だけの霞がかかる。今電車の窓から日曜の街の人通りをのどかに見下ろしている刻下の心持はただ自分が一通りの義務を果してしまった、この間中からの仕事が一段落をつげたと云うだけの単純な満足が心の底に動いているので、過去の憂苦も行末の心配も吉野紙を距《へだ》てた絵ぐらいに思われて、ただ何となく寛《くつ》ろいだ心持になっている。
 すぐ向うの腰掛には会社員らしい中年の夫婦が十歳くらいの可愛い男の子を連れておおかた団子坂《だんござか》へでも行くのだろう。平一はこの会社員らしい男を何処かで見たように思ったがつい思い出せない、向うでも時々こちらの顔を見る。細君の方は子供の帽子を気にして直しているが、子供はまたすぐに阿弥陀《あみだ》にしゃくり上げる。子供の顔はよく両親に似ている、二人のまるでちがった容貌がその児の愛らしい顔の中ですっかり融和されてしまってどれだけが父親、どれだけが母親のと見分けはつかぬ。児の顔を見て後に両親を見くらべるとまるでちがった二つの顔がどうやら似通《にかよ》って見えるのが不思議である。姪はあまり両親に
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