佗しい光景を思い起さぬでもないが、今の平一の心持にはそれが丁度覚めたばかりの宵の悪夢のように思われるのである。
妹を引取って後も、郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、過ぎた苦痛を味わう事は勿論、妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかった。妻と下女とで静かに暮していた処へ急に二人も増したのみならず、姪はいたずら盛りの年頃ではあり、家内は始終ゴタゴタするばかりでほとんど何事も手につかぬような有様であった。それがどうやら今日までで一先《ひとま》ず片付いて妹はともかく国の親類で引取る事になった。それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心《ふみごころ》も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久し振りに天気のよい日曜である。宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通りをぶらぶら歩き、大店《おおだな》のガラス窓の中を覗いてみたり雑誌屋の店先をあさってみたり、しばらくはほとんど何事も忘れていた。京橋から電車に乗ってこの片隅へ腰を下ろしてから始めて今朝の別れを思い起し、それからそれとこの間中の事を繰
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