ミリエーション》の念に襲われるのが常であった。
こういう「笑い」の癖は中学時代になってもなかなか直らなかった。そしてそれがしばしば自分を苦しめ恥ずかしめた。おごそかな神祭の席にすわっている時、まじめな音楽の演奏を聞いている時、長上の訓諭を聴聞《ちょうもん》する時など、すべて改まってまじめな心持ちになってからだをちゃんと緊張しようとする時にきっとこれに襲われ悩まされたのである。床屋で顔に剃刀《かみそり》をあてられる時もこれと似た場合で、この場合には危険の感じが笑いを誘発した。
年を取るに従って多少自分の内部の心理現象を内察する事を覚えてからはこの特殊な笑いの分析的の解説を求めようとした事は幾度あったかわからない。しかしそれは自分などの力にはとても合わないむつかしい問題であった。結局自分の神経の働き方にどこか異常な欠陥があるのであろうという、はなはだ不愉快な心細い結論に達するのが常であった。
いったい私にとっては笑うべき事[#「笑うべき事」に傍点]と笑う事[#「笑う事」に傍点]とはどうもうまく一致しなかった。たとえば村の名物になっている痴呆《ちほう》の男が往来でいろいろのおかしい芸当
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