まれて、しばらくは何事も思わなかった。
 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔を撫《な》でて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを吹き払うような気がした。
 手頃な短い曲をいくつか弾いてから、いつもよくやるペルゴレシの Quando corpus morietur というのをやり始めた。これは Stabat mater の一節だというから、いずれ十字架の下に立った聖母の悲痛を現わしたものであろう。私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。
 この曲の終りに近づいた頃に、誰か裏木戸の方からはいって来て縁側に近よる気はいがした。振り向いてみると花壇の前の日向《ひなた》に妙な男が突っ立っていた。
 三十前後かと思われる背の低い男である。汚れた小倉《こくら》の霜降《しもふ》りの洋服を着て、脚にも泥だらけのゲートルをまき、草鞋《わらじ》を履《は》いている。頭髪は長くはないが踏み荒らされた草原のように乱れよごれ、顎《あご》には虎髯《とらひげ》がもじゃもじゃ生えている。しかし顔にはむしろ柔
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