和な、人の好さそうな表情があった。ただ額の真中に斜めに深く切り込んだような大きな創痕《きずあと》が、見るも恐ろしく気味悪く引き釣っていた。よく見ると右の腕はつけ元からなくて洋服の袖は空《むな》しくだらりと下がっている。一足二足進み寄るのを見ると足も片方不随であるらしい。
彼は私の顔を見て何遍となく頭を下げた。そしてしゃ嗄《が》れた、胸につまったような声で、何事かしきりに云っているのであった。顔いっぱいに暑い日が当って汚れた額の創のまわりには玉のような汗が湧いていた。
よく聞いてみるとある会社の職工であったが機械に喰い込まれて怪我をしたというのである。そして多くの物貰いに共通なように、国へ帰るには旅費がないというような事も訴えていた。
幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥《ようだんす》から小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。
私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく礼を云った。そして「旦那様、どうぞ、御からだを御大事に」と云った。さらに老人や子供等にも一人一人|丁寧《て
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