かくもこの干《ひ》からびた簑を透して中に隠れた生命の断片を想像するのは困難なように思われた。それで私は今書きかけた端書のさきへこんな事を書き加えた。
「今僕の眼の前の紅葉の枝に簑虫が一匹いる。僕は蟻や蜂や毛虫や大概の虫についてその心持と云ったようなものを想像する事が出来ると思うが、この簑虫の心持だけはどうしても分らない。」
 これだけで端書の余白はもうなくなってしまったが、これが端緒になって私はこの虫について色々の事を考えたり想像したりした。
 昔の学者などの中にはほとんど年中、あるいは生涯貧しい薄暗い家の中に引き籠ったきりで深い思索や瞑想に耽っていたような人もあったらしい。こんな人達はすぐ隣に住んでいるゴシップ等の眼にはあるいはちょうどこの簑虫のように気の知れない、また存在の朧気《おぼろげ》なものとしか見えなかったかもしれない。現世とはただわずかな糸でつながって、飄々《ひょうひょう》として風に吹かれているような趣があったかもしれない。ただ簑虫とちがうのは、幾年かの後に思索研究の結果を発表して、急にあるいは徐々に世間を驚かした事である。しかし中には纏《まと》まった結果を得なかったり、ま
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