べき社長殿は奸智《かんち》にたけた弁護士のペテンにかけられて登場し、そうして気の毒千万にも傍聴席の妻君の面前で、曝露《ばくろ》されぬ約束の秘事を曝露され、それを聞いてたけり立ち悶絶《もんぜつ》して場外にかつぎ出されるクサンチッペ英《はなぶさ》太郎君のあとを追うて「せっかく円満になりかけた家庭を滅茶滅茶にされた」とわめきながら退場するのは最も同情すべき役割であり、この喜劇での儲け役であろう。
 さていよいよ夕刊売りの娘に取っときの切り札、最後の解決の鍵を投げ出させる前に、もう一つだけ準備が必要である。それは真犯人の旧騎士吉田を今の新聞記者吉田に仕立ててそれをこの法廷の記者席の一隅に、しかも見物人にちょうどその目標となるべき左の顋《あご》下の大きな痣《あざ》を向けるように坐らせておく必要があるのである。
 夕刊売りが問題の夜更けに問題のアパート階上の洗面場で怪しい男の手を洗っているのを見たという証言のあたりから、記者席の真犯人に観客の注意が当然集注されるから、従ってその時に真犯人は真に真犯人であるらしい挙動をして観客に見せなければならないこと勿論である。それで、特に目につくような赤軸の鉛筆
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