で記事のノートを取るような風をしながら、その鉛筆の不規則な顫動《せんどう》によって彼の代表している犯人の内心の動乱の表識たるべき手指のわななきを見せるというような細かい技巧が要求される。「その男になにか見覚えになる特徴はなかったか」と裁判長が夕刊売りに尋ねる。その瞬間に、よほどのぼんやりでない限りのすべての観客のおのおのの大きくみはった二つの眼が一斉にこの不幸な犯人の左の顋下の大きな痣に注がれるのはもとより予定の通りである。その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》のごとく慌てて仰山《ぎょうさん》らしく高頬《たかほ》のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策はしない。しかし結局はとうとうその場に堪え切れなくなって逃げ出しを計る。これはしかしこういう場合における実際の犯人の心理を表現したものであるかどうか少し疑わしい。自分にはまだ経験はないから分かりかねるが、たとえ逃げ出すにしても逃げ出し方があれとはもう少しどうにか違うのではないかという
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