が、先方ではどうしても自分を思い出してくれない。他の同窓の名前を列挙してみても無効である。
浜べに近い、花崗石《みかげいし》の岩盤でできた街路を歩いていると横手から妙な男が自分を目がけてやって来る。藁帽《わらぼう》に麻の夏服を着ているのはいいが、鼻根から黒い布切れをだらりとたらして鼻から口のまわりをすっかり隠している。近づくと帽子を脱いで、その黒い鼻のヴェールを取りはずしはしたが、いっこう見覚えのない顔である。「私はNの兄ですが、いつかお尋ねした時はおかげんが悪いというのでお目にかかれませんでして」と言う。ちっとも覚えがないし、第一自分の近い交遊の範囲内にNという姓の人は一人もないようである。
なんだか急に帰りたくなって来た。便船はないかと聞いてみるとそんなものはこの島にはないという。このあいだ○○帝大総長が帰る時は八挺艪《はっちょうろ》の漁船を仕立てて送ったのだという。
宅《うち》へ沙汰《さた》なしでうっかりこんな所へ来てしまって、いつ帰られるかわからないことになって、これは困ったことができたと思って、黒い海面のかなたの雲霧の中をながめていたら目がさめた。胃のぐあいが悪くて腹が
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