なんとなく気重く落ち着いた、眠ったいような雰囲気《ふんいき》がその食卓の上にただよっているように感ぜられた。
自分の席から二つ三つ前方の席に、向こうをむいて腰かけている老人の後ろ姿が見えていた。だいぶよれよれになった背広を着て、だん袋のようなズボンをはいているようであった。自分より前から来ていたが注文の品が手間どるので少しじりじりしているらしくなんとなく落ち着かない挙動がうしろから見ている自分の目についた。
向こう側の三人の爆笑とそれに続く沈静との週期的交代の観察に気を取られて、しばらく前方の老人の事を忘れていたが、突然、実に突然にその老人が卓上の呼び鈴をやけくそにたたきつけるけたたましい音に驚かされてそのほうに注意をよびもどされた。
老人は近づいて来た給仕を相手に妙に押しつぶしたような声で何か掛け合いをはじめている。「いったいこれはいくらじゃ、向こうのお客は五十銭払った。それだのにわしは七十銭じゃ。――いや、器はちがわん……」といったようなはなはだやるせのない苦情を言っているらしい。給仕頭《きゅうじがしら》と見える若い白服の男がやって来て小声で何か弁解している。老人はまた「ほか
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