二 雅楽

 友人の紹介によって、始めて雅楽《ががく》の演奏というものを見聞する機会を得た。
 それは美しい秋晴の日であったが、ちょうど招魂社《しょうこんしゃ》の祭礼か何かの当日で、牛込見附のあたりも人出が多く、何となしにうららかに賑わっていた。会場の入口には自動車や人力《じんりき》が群がって、西洋人や、立派な服装をした人達が流れ込んでいた。玄関から狭い廊下をくぐって案内された座席は舞台の真正面であった。知っている人の顔がそこらのあちこちに見えた。
 独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のような聴衆観客席が取り囲んで、それと舞台との間に溝渠《こうきょ》のような白洲《しらす》が、これもやはり客席になっている。廻廊の席と白洲との間に昔はかなり明白な階級の区別がたったものであろうと思われた。自分の案内されたのはおそらく昔なら殿上人《てんじょうびと》の席かもしれない。そう云えばいちばん前列の椅子はことごとく西洋人が占めていて、その中の一人の婦人の大きな帽子が、私の席から見ると舞台の三分の一くらいは蔽《おお》うのであった。これは世界中でいつも問題になる事であるが、ことにああいう窮屈な場所では断る事にした方が、第一その婦人の人柄のためにかえってよくはないかと思われる。
 一段高くなっている舞台は正方形であるらしい。四隅の柱をめぐって広い縁側のようなものがある。舞台の奥に奏楽者の席のあるのは能楽の場合も同様であるが、正面に立てた屏風は、あれが方式かもしれないが私の眼にはあまり渾然《こんぜん》とした感じを与えない。むしろ借りて来たような気のするものである。
 烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》とでもいったような服装をした楽人達が色々の楽器をもって出て来て、あぐらをかいて居ならんだ。昔明治音楽界などの演奏会で見覚えのある楽人達の顔を認める事が出来たが、服装があまりにちがっているので不思議な気がするのであった。
 始めに管絃の演奏があった。「春鶯囀《しゅんのうでん》」という大曲の一部だという「入破《じゅは》」、次が「胡飲酒《こいんしゅ》」、三番目が朗詠の一つだという「新豊《しんぽう》」、第四が漢の高祖の作だという「武徳楽《ぶとくらく》」であった。
 始めての私にはこれらの曲や旋律の和声がみんなほとんど同じもののように聞えた。物に滲み入るような簫《しょう》の音、空へ舞い上がるような篳篥《ひちりき》の音、訴えるような横笛の音が、互いに入り乱れ追い駆け合いながら、ゆるやかな水の流れ、静かな雲の歩みのようにつづいて行く。その背景の前に時たま現れる鳥影か何ぞのように、琴や琵琶《びわ》の絃音が投げ込まれる。そして花片の散り落ちるように、また漏刻《ろうこく》の時を刻むように羯鼓《かっこ》の音が点々を打って行くのである。
 ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は素人《しろうと》の私には分らない。しかしそこには確かに楽の中から流れ出て地と空と人の胸とに滲透するある雰囲気のようなものがある。この雰囲気は今の文化的日本の中では容易に見出されないもので、ただ古い古い昔の物語でも読む時に、わずかにその匂だけを嗅ぐ事の出来るものである。
 始め西洋音楽でも聞くようなつもりで、やや緊張した心持で聴いているうちに、いつとなしにこの不思議な雰囲気に包み込まれて、珍しくのんびりした心持になった。メロディなどはどうでもよかった。ただ春の日永の殿上の欄にもたれて花散る庭でも眺めているような陶然とした心持になった。
 すべての音楽がそうであるか、どうか、私には分らない。しかし、どうもこの管弦楽というものは、客観的分析的あるいは批評的に聴くべきものではなくて、ただこの音の醸し出す雰囲気の中に無意識に没入すべきもののような気がする。そうする事によってこの音楽が本当の意味をもつような気がする。
 これが雰囲気である以上、それに一度没入してしまえば、もう自覚的にそれを聞いていなくてもいい。この空気の中で私は食事をし、書物を読み、また六《むつ》かしい数学の問題を考える事すら可能なような気がする。
 レオナルド・ダ・ヴィンチが画を描く時に隣室で音楽を奏でさせたという話があるが、これももちろんただ音楽の雰囲気だけを要求したものに相違ない。彼は恐ろしく多面的な忙しい頭脳をもっていた人である。時としては彼の神経は千筋に分裂して、そのすべての末端がいら立って、とても落着いた心持になれなかったのではあるまいか。そういう時に彼は音楽の醸し出す天上界の雰囲気に包まれて、それで始めて心の集中を得たのではあるまいか。
 これはただ何の典拠のない私だけの臆測である。しかしそれはいずれにしても、今の苛立《いらだ》たしい世の中を今少し落着けて、人の心を今少し純な集中に導くためには、このような音楽も存
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング