雑記(1[#「1」はローマ数字、1−13−21])
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)日比谷《ひびや》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある朝|築地《つきじ》まで用があって
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十二年一月『中央公論』)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まちがえてポーア/\と云っている
−−
一 日比谷から鶴見へ
夏のある朝|築地《つきじ》まで用があって電車で出掛けた。日比谷《ひびや》で乗換える時に時計を見ると、まだ少し予定の時刻より早過ぎたから、ちょっと公園へはいってみた。秋草などのある広場へ出てみると、カンナや朝貌《あさがお》が咲きそろって綺麗《きれい》だった。いつもとはちがってその時は人影というものがほとんど見えなくて、ただ片隅のベンチに印半纏《しるしばんてん》の男が一人ねそべっているだけであった。木立の向うにはいろいろの色彩をした建築がまともに朝の光を浴びて華やかに輝いていた。
こんなに人出の少ないのは時刻のせいだろうが、これなら、いつかそのうちにスケッチでも描きに来るといいという気がした。
四、五日たってから、ある朝奮発して早起きして、電車が通い始めると絵具箱を提《さ》げて出かけた。何年ぶりかで久し振りに割引電車の赤い切符を手にした時に、それが自分の健康の回復を意味するシンボルのような気がした。御堀端《おほりばた》にかかった時に、桃色の曙光に染められた千代田城の櫓《やぐら》の白壁を見てもそんな気がした。
日比谷で下りて公園の入り口を見やった時に、これはいけないと思った。ねくたれた寝衣《ねまき》を着流したような人の行列がぞろぞろあの狭い入口を流れ込んでいた。草花のある広場へはいってみるといよいよ失望しなければならなかった。歯磨|楊枝《ようじ》をくわえた人、犬をひっぱっている人、写真機をあちらこちらに持ち廻って勝手に苦しんでいる人、それらの人の観察を享楽しているらしい人、そういう人達でこの美しい朝の広場はすっかり占領されていた。真中の芝生に鶴が一羽歩いているのを小さな黒犬が一|疋《ぴき》吠えついていた。
最も呑気《のんき》そうに見えるべきはずのこれらの人達が今日の私の眼には妙にものものしい行列のように見えた。大劇場のプロムナードを練り歩く人の群のような気がした。そして世の中に「閑な人」ほど恐ろしいものはないという気がした。自分がやはりその一人である事などは忘れてしまって。
裏の方の芝地へ廻ってみても同様であった。裁判所だか海軍省だかの煉瓦を背景にした、まだ短夜の眠りのさめ切らぬような柳の梢に強い画趣の誘惑を感じたので、よほど思い切って画架を立てようかと思っていると、もうそこらを歩いている人が意地悪く此方《こっち》へ足を向け始めるような気がする。ゴーゴルか誰かの小品で読んだ、パンの中から出た鼻の捨場所を捜してうろついて歩いている男の心持を想い出した。
あきらめて東京駅から鶴見行の切符を買った。この電車の乗客はわずかであったが、その中で一人かなりの老人で寝衣のようなものを着て風呂敷包をさげたのが、乗ったと思うともうすぐに有楽町で下りた。これはどういう訳だか私には不思議に思われた。事によるとこの人は東京駅員で昨夜当直をしたのが今朝有楽町辺の宿へ帰って行くのではないかという仮説をこしらえてみた。そう云えば新橋で下りる人もかなりあった。これもどういう人達か見当が付かない。
汚いなりをした、眼のしょぼしょぼした干からびた婆さんと、その孫かとも見える二十歳くらいの、大きな風呂敷包の荷をさげた、手拭浴衣《てぬぐいゆかた》の襦袢《じゅばん》を着た男が乗っていた。話の様子で察してみると、誰かこの老婆の身近い人が、川崎辺の病院にでもはいっていて、それが危篤にでも迫っているらしい。間に合うかどうかを気にしているのを、男がいろいろに力をつけて慰めてでもいるらしかった。こういう老婆を見ると、いかにも弱々しく見える一方では、また永い間世の中のあらゆる辛苦に錬え上げられて、自分などがとても脚下にもよりつかれないほど強い健気《けなげ》なところがあるように思われて来る。そしてそれが気の毒なというよりはむしろ羨ましいような気のする時がないでもない。
鶴見で下りたものの全くあてなしであった、うしろの丘へでも上ったらどこかものになるだろうと思って、いい加減に坂道を求めて登って行った。風が少しもなくて、薄い朝靄《あさもや》を透して横から照り付ける日光には帽子の縁は役に立たぬものである。坂を上りつめると広い新開道があった。少しあるくと道は突然中断されて、深い掘割が道
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング