外有効ではないだろうか。
こんな事を考えるともなく考えながら、私の心はいつか遠いわれわれの祖先の世に遊んでいた。
朗詠の歌の詞は「新豊《しんぽう》の酒の色は鸚鵡盃《おうむはい》の中に清冷たり、長楽《ちょうらく》の歌の声は鳳凰管《ほうおうかん》の裏《うち》に幽咽《ゆういん》す」というのだそうであるが、聞いていてもなかなかそうは聞きとれないほどにゆっくり音を引延ばして揺曳《ようえい》させて唱う。そしてその声が実際幽咽するとでもいうのか、どこか奥深い御殿のずっと奥の方から遥かに響いて来るような籠った声である。これは歌う人が口をあまり十分に開かず、唇もそんなに動かさずに、口の中で歌っているせいかもしれない、始めの独唱のときは、どの人が歌っているか、ちょっと見ては分らないようであった。
これもおそらく多くの現代人にはあまりに消極的な唱歌のように思われるかもしれない。もしそうであれば、それだけかえって必要な解毒剤《げどくざい》かもしれない。
管絃のプログラムが終ると、しばらくの休憩の後に舞楽が始まった。
一番目は「賀殿《かてん》」というのであった。同じ衣装をつけた舞人が四人出て、同じような舞をまうのであるが、これもちょうど管弦楽と全く同じようにやはり一種の雰囲気を醸出する「運動の音楽」であるように思われた。外の各種の舞踊に表われるような動的エネルギーの表出はなくて、すべてが静的な線と形の律動であるように思われた。
二番目の「地久《ちきゅう》」というのは、やはり四人で舞うのだが、この舞の舞人の着けている仮面の顔がよほど妙なものである。ちょっと恵比寿《えびす》に似たようなところもあるが、鼻が烏天狗《からすてんぐ》の嘴《くちばし》のように尖《とが》って突出している。柿の熟したような色をしたその顔が、さもさも喜びに堪えないといったように、心の笑みを絞り出した表情をしている。これが生きている人の本当の顔ならば、おそらく一分間あるいは三十秒間もそのままに持続する事は困難だろうと思われる表情をいつまでも持続して舞うのである。これは舞楽に限らない事であろうが、これだけの事でもそこに一種の空気が出てくる。もっとも不思議な事に、仮面の顔というものは、永く見ていると、それが色々に動き変わるような錯覚を生じるものだが、この場合でもやはりそれがある。音楽と運動の律動につれて、この笑顔にも一種の律動的変化を感じる事が出来る。
柿色の顔と萌黄色《もえぎいろ》の衣装の配合も特殊な感じを与える。頭に冠った鳥冠《とりかぶと》の額に、前立《まえだて》のように着けた鳥の頭部のようなものも不思議な感じを高めた。私はこの面の顔の表情に、どこか西洋画で見るパンの神のそれに共通なものがあるような気がしてならなかった。
三番目は「蘇莫者《そまくしゃ》」というのである。何と読むのか、プログラムに仮名付けがないから分らない。説明書によるとこの曲はもと天竺《てんじく》の楽で、舞は本朝で作ったとのことである。蘇莫者の事は六波羅密経《ろくはらみっきょう》に詳しく書いてある。聖徳太子が四十三歳の時に信貴山《しぎさん》で洞簫《どうしょう》を吹いていたら、山神が感に堪えなくなって出現して舞うた、その姿によってこの舞を作って伶人《れいじん》に舞わしめたとある。
始めに、たぶん聖徳太子を代表しているらしい衣冠の人が出て来て、舞台の横に立って笛を吹く。しばらくすると山神が出て来て舞い始める。おどろな灰褐色の髪の下に真黒な小粒な顔がのぞいている。色があまりに黒いのと距離が遠いのとで、顔の表情などは遺憾ながら分らない。片手に何か短い棒のようなものを固く握っているが、これも何であるか分らなかった。しかし私にはそれはどうでもよい。面白いのはその運動である。頭の上で近付けた両手を急速に左右に離して空中に円を描くような運動、何かものを跨《また》ぎ越えるような運動、何ものかに狙い寄るような運動、そういうような不思議な運動が幾遍となく繰り返された。
前の二種の舞がいかにもゆるやかな、のんびりとしたものであったのに反して、この蘇莫者にはどこかもう少し迫った感情のようなものが出ている。それは畢竟《ひっきょう》運動の速度、従ってエネルギーの差から起るものかもしれないが、そればかりでなく、この舞人の挙動自身に何かしらある感情の逼迫《ひっぱく》を暗示するものがあるのかもしれない。それがどういう感情であるかと問われると私にも分らないが、しかし例えばある神性と同時にある狂暴性を具えた半神半獣的のビーイングの歓喜の表現だと思って見ると、そう思えない事はない。
私は遠い神代のわが大八洲《おおやしま》の国々の山や森が、こういう神秘的なビーイングによって棲《す》まわれていたと想像してみた。そうして自分がそれらのビーイングの正
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