統の子孫であると考えてみた。そう思う事によってこの国土に対する自分の愛着の感情は増しても減りはしないような気がする。
 最後に「長慶子《ちょうげいし》」という曲を奏した。慶祝の意を表わしたもので、参会の諸員退出の時にこれを奏すと説明書にあったが、そのためか、奏楽中にがたがた席を立つ人が続々出て来た。
 近頃にない舒《の》びやかな心持になって門を出たら、長閑《のどか》な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。

      三 ノーベル・プライズ

 ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出てみると、国際電報によって昨年度と今年度のノーベル賞金の受賞者の名前の報知が届いた、その一人はアインシュタインで、もう一人はコーペンハーゲンのニールス・ボーアという人だそうだが、このボーアという人はいったいどんな人でどういう仕事をした人かというのである。私はなるべく簡単に自分の知ってる要点だけを話して電話を切った。そしてやりかけた仕事にとりかかるとまた電話がかかった。今度は別の新聞社から同じ事の問合わせであった。ボーアをまちがえてポーア/\と云っているのが気になるので、それだけは訂正しておいた。
 ボーアの理論の始めて発表されたのは一九一三年であったから、もうちょうど一と昔前の事である。その説はすぐに我邦《わがくに》の専門家の間にも伝えられ、考究され、紹介され、応用もされていた。今日物理学に興味をもつ人でボーアの名前とその仕事の一般を知らない人はおそらく一人もないはずである。
 ところがこれほど専門家の目には顕著な人物の名前が「世間」というものの人名簿には今日という今日までどこにもかいてなかった。それがノーベル賞の光環を頂いて突然天から降って来た天使のように今「世間」の面前に立っている。十年前に出現した新星の光が今ようやく地球に届いたようなものである。
 それほどに科学者の世界は世間を離れている。しかしそのおかげで学者は心静かに落着いて各自の研究に没頭していられるのかもしれない。
 近頃かの地でボーアに会って帰って来た友人の話によると、このまだ若い学者は、どこか近い田舎に小さな別荘のようなものを有《も》っていて、暇のあるごとにそこへ行く、そうして平和な周囲と新鮮な空気の中に想を練りペンを使う、どうかすると芝生の上に寝転がって他所目《よそめ》にはぼんやり雲を眺めているそうである。そういう時に彼の頭には色々の独創的な考えの胚子が浮んで来るのらしい。彼はそういう|考え《イデー》を書き止めておいては、それを丁寧に保存し整理しては追究して行くそうである。いかにもこの人にふさわしいやり方だと思う。過去の仕事のカタログを製したりするよりは、むしろ未来の仕事の種子の整理に骨折っているらしいのが、常に進取的なこの人の面目をよく表わしていて面白いと思う。
 このようにしてこそ、彼のような学者は本当の仕事というものが出来るのではあるまいか。実に羨《うらや》ましい境遇だと思わねばならない。
 日本に限らずどこでも一体に学者というものは世間から尊重されないものだという説がある。この尊重という文字の意味が問題になる。
 昔はとにかく今日では我邦ですらも科学というものの功利的価値は、理解されたというよりむしろ無理解に世間で唱道されている。その当然の結果として科学者はそういう意味で尊重されている。従って科学者は自分の研究以外の事で常に忙しい想いをするように余儀なくされる。
 科学者としては、世間に対する自分の義務として、出来得る限りは、世間からの要求に応じなければならないと考える人は、むしろ多数であろう。そう考える以上は、場合によっては自分の大事な研究時間をずいぶん思い切って割いても世間の要求に応じるために忙しい想いをし、従ってそれだけの心のエネルギーを余計に消磨させなければならない。
 これは止むを得ない事かもしれない。そして私はそういう学者の犠牲的精神に尊敬を払う事を忘れないつもりである。
 しかし学者とこれに対する世間とから全く飛び離れた第三者の位置に立って見ると、これは世間というものが本当に学者を尊重し学術の進歩を期図する方法ではないような気がする。場合によってはむしろ学者を濫用し科学の進歩を妨げるような結果になる事がないとは限らないように思う。これはよほど慎重に考えてみなければならないかなり大事な問題である。
 学者の中にも科学の応用に興味を有ち、その方面に特別の天賦を具《そな》えている人がある。また一方では純理的の興味から原理や事実の探究にのみ耽《ふけ》る人もある。中には両方面を併せて豊富に有《も》っている多能な人もないではない。
 ボーアのごときはむしろこの第二のタイプの学者であるように思われる。従って世間か
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