らうるさく取りすがられ駆使される事なしに、そっとして構わないでおいてもらう事に最大の幸福を感ずるたちの人ではなかろうかと想像される。こういう型の学者があるとすれば、それを世間が本当に尊重するつもりなら、やはりはたから構わないで自由に芝生に寝転がって雲を眺めさせておく方がいちばんいいだろうと思う。
そう云えばアインシュタインなども本来はやはりそういう型の学者のように私には思われる。ところが幸か不幸か彼も数年前から世間の眼の前に押し出された。そのために人のよく知る通り恐ろしく忙しいからだになってしまった。もっとも彼自身はそれを自分の楽しい義務のように考えているかのように見える。そして少しの厭な顔もしないで誰でもの要求を満足させるために忙殺されているように見える。これは美しい事である。
しかし純粋に科学の進歩という事だけを第一義とする立場からいうとこれは少しアインシュタインに気の毒なような気もする。もう少し心とからだの安息を与えて、思いのままに彼の欲する仕事に没頭させた方が、かえって本当にこの稀有《けう》な偉人を尊重する所以《ゆえん》でもあり、同時に世界人類の真の利益を図る所以にもなりはしまいか。これも考えものである。
今度のノーベル・プライズのために不意打ちをくらった世間が例のように無遠慮に無作法にあのボーアの静かな別墅《べっしょ》を襲撃して、カメラを向けたり、書斎の敷物をマグネシウムの灰で汚したり、美しい芝生を踏み暴《あら》したりして、たとえ一時なりともこの有為な頭の安静をかき乱すような事がありはしないかというような気がする。そんな事がありそうである。そしてそうあっては困ると思う。しかし当人は存外平気で笑っているかもしれない。
もし誰かがカントを引ぱり出して寄席《よせ》の高座から彼のクリティクを講演させたとしたらどうであったろう。それは少しも可笑《おか》しくはないかもしれない、非常に結構な事ではあろうが、しかしそれがカントに気の毒なような気のするだけは確かである。
私はただ何という理窟なしにボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた。そしてそのような生活がいつまでも妨げられずに平静に続いて行って、その行末永い途上に美しい研究の花や実を齎《もたら》す事を期望している。[#地から1字上げ](大正十二年一月『中央公論』)
四 切符の鋏穴
日比谷止まりの電車が帝劇の前で止まった。前の方の線路を見るとそこから日比谷まで十数台も続いて停車している。乗客はゾロゾロ下り始めたが、私はゆっくり腰をかけていた。すると私の眼の前で車掌が乗客の一人と何かしら押問答を始めた。切符の鋏穴《はさみあな》がちがっているというのである。
この乗客は三十前後の色の白い立派な男である。パナマらしい帽子にアルパカの上衣を着て細身のステッキをさげている。小さな声で穏やかに何か云っていたが、結局別に新しい切符を出して車掌に渡そうとした。
二人の車掌が詰め寄るような勢いを示して声高《こわだか》にものを云っていた。「誤魔化《ごまか》そうと思ったんですか、そうじゃないですか。サア、どっちですか、ハッキリ云って下さい。」
若い男は存外顔色も変えないで、静かに伏目がちに何か云いながら、新しい切符を差し出していた。車掌はそれを受取ろうともしないで
「サア、どっちです。……車掌は馬鹿じゃありませんよ」と罵《ののし》った。
私は何だか不愉快であったからすぐに立って車を下りた。
あの若い立派な男がわずかに一枚の切符のために自分の魂を売ろうとは私には思いにくかった。しかしそれはどうだか分らない事である。
それにしても私はこの場面における車掌の態度をはなはだしく不愉快に感じた。たとえ相手の乗客が不正行為をあえてしたという証拠らしいものがよほどまでに具備していたにしても、人の弱点を捕えて勝ち誇ったような驕慢《きょうまん》な獰悪《どうあく》な態度は醜い厭な感じしか傍観している私には与えなかった。ましてそれが万一不正でなくて何かの誤謬《ごびゅう》か過失から起った事であったら果してどうであろう。もしも時代と場所がちがっていて、人が自分の生命に賭けても Honour を守るような場合であったらこれはただではすみそうもない。
こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。
それから四、五日経っての事である。私はZ町まで用があって日盛りの時刻に出掛けて行った。H町で乗った電車はほとんどがら明きのように空《す》いていた。五十銭札を出して往復を二枚買った。そしてパンチを入れた分を割《さ》き取って左手の指先でつまんだままで乗って行った。乗って行くうちに、その朝やりかけていた仕事のつづきを考えはじめて、頭の中はやがてそれでいっぱいになった。そ
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング