ういう時に私の悪い癖で、何かしら手に持っているものを無意識にいじる、この時は左の手の指先で切符の鋏穴のところをやはり無意識にいじっていたのである。これはどういう訳だか分らないが、例えば盲人が暗算をやる時に無意識に指先をふるわしているといくらか似た事かもしれない。
Z町の停留場で下りようとして切符を渡すと、それをあらためた車掌が、さらにもう一つパンチを入れてそれと見較べて「これはちがいます、私のよりは穴が大きい」と云った。私は当惑した。「でも、さっき君が自分で切ったばかりではないか。」こんな証拠にもならない事を云ってみた。
切り立ての鋏穴は円形から直角の扇形《セクトル》を取りのけた格好をしている。私の指先でもみ拡げられた穴にもその形の痕跡だけはちゃんと残っているが、穴の直径が二、三割くらいは大きくなって、穴の周辺が毛ば立ち汚れている。
もう一人の車掌もやって来て、同じ切符にもう一つ穴をあけた。「私のはこれですからね」と云って私の眼の前にそれを突きつけた。三つの穴が私を脅かすように見えた。
代りの切符をもう一枚出して下ろしてもらった方が簡単だとは思った。が、その時の私の腹の虫の居所がよほど悪かったと見えて、どうもそういうあっさりした気になれなかった。別の切符を出すのはつまり自分の無実の罪を承認する事になるような気がしたので、私はそのまま黙って車を下りてしまった。車掌は踏台から乗り出すようにして、ちょっと首をかしげて右の手でものを捧げるような手つきをしながら「もう一枚頂きましょう」と云ってニヤニヤした。
下り立った街路からの暑い反射光の影響もあったろうし、朝からの胃や頭の工合の効果もあったかもしれないが、とにかくこの車掌の特殊な笑顔を見た時に私の全身の血が一時に頭の方へ駆け上るような気がした。そして思い返す間のないうちに
「それじゃあ、交番へ来てくれたまえ」とついこんな事を云ってしまった。交番はすぐ眼の前にあった。公平な第三者をかりなければ御互いの水掛論ではとても始末が着かないと思ったのである。車掌は「エエ、参りますよ、参りますとも、いくらでも参りますよ」とそう云って私について来た。
警官は私等二人の簡単な陳述を聞いているうちに、交番に電話がかかって来た。警官はそれを聞きながら白墨《はくぼく》で腰掛のようなところへ何か書き止めていた。なかなか忙しそうである。私は少し気の毒になって来た。
警官は電車を待たさないために車掌の姓名を自署さしてすぐに帰した。それから私に「貴方《あなた》御いそぎですか」と聞いた。私はこの警官に対して何となくいい感じを懐《いだ》くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。
ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口《がまぐち》の中から自分の公用の名刺を出して警官に差出した事である。事柄の落着を出来るだけ速やかにするにはその方がいいと思ってした事ではあるが、後で考えてみると、これは愚かなそして卑怯《ひきょう》な事に相違なかった。そしてこの上もない恥|曝《さら》しな所行であったが、それだけ私の頭が均衡を失っていたという証拠にはなる。
警官の話によるとこの頃電車では鋏穴の検査を特に厳重にしているらしいという事である。そして車掌の方では鋏穴ばかりを注目するのだから止むを得ないというのである。そう云われてみると私は一言もない。
そのうちに電車監督らしい人が来た。こういう事に馴れ切っているらしい監督はきわめて愛想よく事件を処理した。「決して御客様方の人格を疑うような訳ではありませんが、これも職務で御座いますからどうか悪しからず御勘弁を願います」と云う。こう云われてみると私はますます弱ってしまうのであった。私は恐縮して監督と警官に丁寧に挨拶して急いでそこを立去った。別の切符は結局渡さなかったのである。
仕合せな事には、こういう場合に必然な人だかりは少しもしなかった。それで私が今こんな事を書かなければ、私のこの過失は関係者の外には伝わらないで済むかもしれない。
私はその日|宅《うち》へ帰ってから、私には珍しいこの経験を家族に話した。すると家族の一人は次のような類例を持ち出してさらに空談に花を咲かせた。
この間子供等大勢で電車に乗った時に回数切符を出して六枚とか七枚とかに鋏を入れさせた。そして下車する時にうっかり間違えて鋏を入れないのを二、三枚交ぜて切って渡したらしい。それで手許にはそれだけ鋏の入ったのが残っていた訳である。そうとも知らず次に乗車した時にうっかり切符を渡すとこれは鋏が入っていますよと注意されてはなはだきまりの悪い思いをしたそうである。その時の車掌は事柄を全くビジネスとして取扱ったからまだよかったが、隣に坐っていた人が妙にニヤニヤしていたという事であ
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