る。
 この場合も全然乗客の方の不注意であって車掌に対しては一言の云い分もない。
 電気局から鋏穴の検査を励行するように命令し奨励するとすれば、車掌がこれを遂行するのは当然の事である。そして車掌の人柄により乗客の種類によりそこに色々の場面が出現するのは当然の事である。
 私は自分の落度《おちど》を度外視して忠実な車掌を責めるような気もなければ、電気局に不平を持ち込もうというような考えももとよりない。
 しかしこの自身のつまらぬ失敗は他人の参考になるかもしれない、少なくも私のように切符の鋏穴をいじって拡げるような悪い癖のある人には参考になる。同時にまた電気局や車掌達にとっても、そういう厄介な癖を持った乗客が存在するという事実を知らせるだけの役には立つと思う。
 ついでながら、切り立ての鋏穴の縁辺は截然《せつぜん》として角立《かどだ》っているが、揉《も》んで拡がった穴の周囲は毛端立《けばだ》ってぼやけ[#「ぼやけ」に傍点]あるいは捲くれて、多少の手垢《てあか》や脂汗《あぶらあせ》に汚れている。それでも多くの場合に原形の跡形だけは止めている。それでもしこのように揉んだ痕跡があって、しかも穴の大きさが新しい穴と同じであったら、それはかえってもとの穴がちがった鋏によって穿《うが》たれたものだという証拠になる。
 私はそういう変形した鋏穴の「標本」を電気局で蒐集して、何かの機会に車掌達の参考に見せるのもいいかもしれないと思う。何なら虫眼鏡で一遍ずつ覗《のぞ》かせるのもいいかもしれない。ついでにもう一歩を進めるならば、電車の切符について起り得る錯誤のあらゆる場合を調査しておくのもいいかと思う。不正な動機から起るものの外に、どれだけ色々の場合があるかを研究し列挙して車掌達の参考に教えておくのも悪くない。事柄が人の「顔」にかかる事であるから、このくらいの手を足すのも悪くはあるまい。
 車掌も乗客も全く事柄を物質的に考える事が出来れば簡単であるが、そこに人間としての感情がはいるからどうも事が六《むつ》かしくなる。
 物質だけを取扱う官衙《かんが》とちがって、単なる物質でない市民乗客といったようなものを相手にする電気局は、乗客の感情まで考えなければならず、そして局の仕事が市民に及ぼす精神的効果までも問題にしなければならないから難儀であろう。
 しかしこれは止《や》むを得ない事である。事柄は小さなようでも電車切符の穴調べも遣り方によっては市民の頭の中に或るものをつぎ込み、その中から或るものを取り去るような効果がないとは限らない。
 例えばわれわれが毎日電車に乗る度に、私が日比谷で見たような場面を見せられるとしたらどうだろう。おそらくわれわれの「感情美」に対する感覚は日に日に麻痺《まひ》して行きそうである。
 百千年の後に軽率な史家が春秋《しゅんじゅう》の筆法を真似て、東京市民をニヒリストの思想に導いた責任者の一つとして電気局を数えるような事が全くないとは限らないような気もする。
 十幾年前にフィンランドの都ヘルジングフォルスへ遊びに行った時に私を案内して歩いたあちらの人が、財布から白銅貨のような形をした切符を出して、車掌というものの居ない車掌台の箱に投げ込むのを見た。つまらない事だが、私が今でもこの国この都を想い出す時に起る何となく美しい快い感じには、この些細《ささい》な事もいくらかを寄与しているように思う。
 諸国を旅してみてもいったん売った電車切符をまた取り戻すような国は稀であった。それで私は国々で乗った電車切符を記念に集めて持ち帰る事が出来た。この妙な機会に私はこれで張り交ぜの屏風でも作って「人を盗賊と思わない国々」の美しい想い出にしようかと思っている。

      五 善行日と悪行日

 ある日新聞を見ていると妙な広告が眼についた。「サーモンデー」と大きな字で印刷してある。何かの説教でもあるかと思ってよく見ると、それは Sermon でなくて Salmon day であった。鮭の鑵詰《かんづめ》を食う日で、すなわちその鑵詰の広告のようなものと判断された。そうしてそれが当日行われたいわゆる「節約デー」に因《ちな》んだものだという事に気が付いた。
 鮭と節約との関係は別問題として、私にはこの「節約デー」という文字自身が何となく妙な感じを与えた。その感じはちょっと簡単に説明し難い種類のものである。それはつまりこれから以下に私が書こうとする事を煎《せん》じつめたような妙なものであった。
 歳のうちのある特定の日を限って「節約デー」を設けるという事は、従来の多くの日には節約をしていないか、もしくは濫費をしていたという事である。同じような例を挙げると、年中怠けてばかりいる学生が、一年に一日「勉強デー」を設けるのや、あるいは平生悪い事ばかりしている男が、
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