いゝ加減に切り上げてしまはなければならなかつた。輕く興奮してほてる顏を更に強い西日が照りつけて、丁度酒にでも微醉したやうな心持で、そしてからだが珍しく輕快で腹がいゝ工合に空つて居た。
 停車場迄來ると汽車はいま出た計りで、次の田端停り迄は一時間も待たなければならなかつた。構外のWCへ行つて其處の低い柵越しに見ると、丁度其の向側に一臺の荷物車があつて人夫が二人其の上にあがつて材木などを積み込んで居た。右の方のバックには構内の倉庫の屋根が黒く聳えて、近景に積んだ米俵には西日が黄金のやうに輝いて居り、左の方の澄み通つた秋空に赤や紫や色々の煙が渦卷き昇つて居るのが餘りに美しかつたから、いきなり繪具箱を柵の上に置いてWCの壁にもたせかけ大急ぎのスケッチをしようとした。板は唯一枚しかなかつたから、さつきの繪の裏へ極めて大まかに描き始めた。
 場所が場所だけに見物が段々背後に集まつて來た。車夫も來れば學生も來て居るやうであつた。しかし大急ぎで此の瞬間の光彩を攫まうとして藻掻いて居る私には、とてもそんな人達にかまつて居るだけの餘裕はなかつた。それでも人々の言葉は時々耳にはひる。私が新しくブラシを下す度
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