狗と劒術をやつて居るのがあつた。其の人形の色彩から何からが何とも云へない陰慘なものである。此の小屋の上に聳えた美しい老杉までが其爲に物凄く恐ろしく無氣味なものに感ぜられた。何の爲にわざ/\こんなものが作つてあるのか全く分らない。
 秋の日が段々低く落ちて行つた。餘りゆる/\して居ては、折角此處迄來たのに一枚も描かずに歸る事になりさうなので、行き當り次第に並木道を左へ切れて行つて、そこの甘藷畑の中の小高い處に兎も角も腰をかけて繪具箱をあけた。何となしに物新しい心のときめきと云つたやうなものを感じた。それは子供の時分に何か長く欲しがつて居た新しい玩具を手に入れて始めて其れを試みようとする時、或は何かの研究に手を付けて、始めて新しい結果の曙光が朧に見え始めた時に感じるのと同じやうなものであつた。天地の間にあるものは唯向ふの森と家と芋畑とそして一枚のスケッチ板ばかりであつた。
 向ふの小道を稀に百姓が通つたが、わざ/\自分の處迄覗きに來る人は一人もなかつた。
 どれだけ時間が經過したか丸で分らなかつた。唯律儀な太陽は私にかまはず段々に低く垂れ下つて行つて景色の變化が餘りに急激になつて來るので、
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