に、「烟だよ」とか「電柱だよ」とか一々説明してくれる人もあつて、何だか少し背中や頸筋の邊がくすぐつたいやうな氣持もした。さういふ人の同情に酬いる爲には私の繪がもう少し人の目にうまく見えなければ氣の毒だと思ふのであつた。
 ほんの大體の色と調子の見當をつけた計りで急いで繪具箱を片付けてしまつた。さてふり返つて見るともう誰も居なかつた。人々の好奇心の目的物はやつぱり此の私ではなくて「繪を描いてる何處かの人」であつたのである。此分なら東京の町中でもどうやら寫生が出來さうな氣もした。
 往きに一緒であつた女學校の一團と再び同じ汽車に乘り合せたが、生徒達は往きとは丸で別人のやうに活溌になつて居た。あの物靜かな唱歌はもう聞かれなくなつて、賑かな寧ろ騷々しい談笑が客車の中に沸き上つた。小さなバスケットや信玄袋の中から取り出した殘りものゝ鹽煎餅やサンドウイッチを片付け[#「片付け」に傍点]て居た生徒達の一人が、さういふものゝ包紙を細かく引き裂いては窓から飛ばせ始めると、風下の窓から手を出して其れを取らうとするものが幾人も出て來た。窓際に坐つて居た若い商人風の男も一緒になつて其のやうな遊戲を享樂して居た
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