來[#「來」は底本では「出」]た。牛の毛色が燃えるやうに光つて見えた。それはどうしても此世のものではなくて誰かの名畫の中の世界が眼前に活きて動いて居るとしか思はれなかつた。
殆んど感傷的になつて見惚れて居る景色の中には、こんなに日が暮れかゝつてもまだ休まず働いて居る農夫の家族が幾組となく居た。赤兒をおぶつて、それをゆさぶるやうな足取をして、麥の芽をふんで居る母親達の姿が哀れに見えた。かうして日の暮れる迄働いておいて朝はもう二時頃から起きて大根の車の後押をして市場へ出るのであらう。
市に近づくに從つて空氣の濁つて來るのが眼にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物凄く棚引いて居た。
若しも事情が許すなら、私は此の廣い平坦な高臺の森影の一つに小さな小家を建てゝ、一週の中の或一日を其處に過したいと思つたりした。此れ迄色々の所謂勝地に建つて居る別莊などを見ても、自分の氣持にしつくりはまるやうなものはこれと云つて頭に止まつて居ない。海岸は心騷がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高樓はどうも氣樂さうに思はれない。頼まれてもさういふ處に住む氣にはなれさうもない。しかし此の平板な野
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