地を當もなく東へ歩いて行つた。廣い廣い桃畑があるが、樹はもうみんな葉をふるつてしまつて、果實を包んだ紙の取り殘されたのが雨にたゝけてくつついて居る。少しはなれて見ると密生した梢の色が紫色にぼうと煙つたやうに見える。畑の間を縫ふ小道の傍の處々に黄ばんだ榛の樹の梢も美しい。
 丘の上へ登つて見ようと思つて道を搜して居ると池の樣なものゝ傍に出た。漣一つ立たない池に映つた丘の森の色も又なく美しいものである。汀に茂る葭の斷間に釣をして居る人があつた。私の近づく足音を聞くと振返つて何だかひどく落ち付かぬ風を見せた。もし此の池で釣魚をする事が禁ぜられてゞも居るか、さうでないとすれば、此の人は矢張り自分の樣なたち[#「たち」に傍点]の、云はゞ据りの惡い[#「据りの惡い」に傍点]良心をもつた人間だらうと思はれた。そして惡い事をして居なくても、人から惡い事をして居ると思はれはしないかと思ふと同時に、實際惡い事をして居ると同じ心持になるといふたち[#「たち」に傍点]の男かも知れないと思つた。そして同病相憐む心から私は急いで其處を通り過ぎねばならなかつた。
 漸く丘の下の往還に出ると、丁度其處から登る坂道があ
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