の中で一枚も此の美しい光景を描いたものを見ないのが不思議に思はれた。併しいくら日本の鐵道省でも畫家の寫生を禁じて居るとは考へ得られなかつた。

 十月十六日、日曜。昨日の漫歩が身體にも精神にも豫想以上にいゝ效果があつたやうに思はれたので、今日もつゞけて出かけて見る事にした。昨日汽車の窓から見ておいた浦和附近の森と丘との間を歩いて見ようと思つたのである。昨日出る時には殆んど何のあてもなしであつたのが、唯一度の往復で途中へ數へ切れない程の目當てが出來てしまつた。自分等の研究の仕事でもよく似た事がある。唯空で考へるだけでは題目《テーマ》は中々出て來ないが、何か一つつゝき[#「つゝき」に傍点]始めると其の途中に無數の目當てが出來過ぎて困る位である。さういふ事でも、興味があるからやるといふよりは、やるから興味が出來る場合がどうも多いやうである。
 今日は日曜で汽車は不合理な不正當な滿員であつた。殆んど身動きも出來ない程で、出る時に出られるかどうかと思ふ位であつた。網棚に繪具箱をのせる空所もなかつたのでベンチにのせかけて持つて居るうちに、誤つて取落すと隣に立つて居た老人の足に當つた。老人は一寸怒つたやうな顏を見せたが、驚いてあやまつたらすぐに心が解けたやうである。私はこんな時にいつでも思ふ事がある。自分は何故平氣ですまして居て、もし面と向つて怒られたら、そんな處に足をもつて來て居る奴があるか氣をつけろと怒鳴りつける丈けの勇氣[#「勇氣」に傍点]がないのだらう。此の勇氣がなくてはとても今の世間をのんびりした氣持では渡つて行かれないらしい。昔は命を的にしなければ、うつかり誤つてゞも人の足も踏めず、惡口も無論云はれなかつた。私の血縁の一人は夜道で誤つて衝き當つた人と斬り合つて相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に觸れない限り、自分の眼鏡で見て氣に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、逆樣に罵しる方が男らしくていゝのである。さういふ事を道樂のやうにして歩いて居る人格者もある。それで私は自分の子供等の行末を思ふなら、さういふ風に今から教育しなければさきで困るのではないかと思ふ事も屡※[#二の字点、1-2-22]ある。
「赤羽で今電氣を焚く[#「電氣を焚く」に傍点]ところをこさへ[#「こさへ」に傍点]て居るが、其れが出來るとはや[#「はや」に傍点]……」こんな事を話して居る男があつた。電氣を焚くといふ言葉が面白かつた。日本語もかういふ工合に活用させる人ばかりだつたら、字を見なければ分らない或は字を見ても讀めないやうな生硬な術語などをやめてしまつて、もう少し親しみのあるものに代へる事が出來さうである。國語調査會とかいふものでかういふいゝ言葉を調べ上げたらよささうに思はれた。
 浦和の停車場からすぐに町外れへ出て甘藷や里芋やいろいろの畑の中をぶら/\歩いた。とある雜木林の出つ鼻の落葉の上に風呂敷をしいて坐り込んで向ひの丘を寫し始めた。平生は唯美しいとばかりで不注意に見過して居る秋の森の複雜な色の諧調は全く臆病な素人繪かきを途方にくれさせる。未だ眼の鋭くない吾々初學者に取つては恐らく此れ程いゝ材料はあるまい。しかし黒人《くろうと》になれば多分唯一面のちやぶ臺、一握の卓布の面の上にでも矢張りこれだけの色彩の錯綜が認められるのであらう。それ程になるのも考へものであるとも思ふが、併し假令《たとひ》樂しみ事にしろやつぱり其處迄行かなければつまらないとも思ふ。
 畑に栽培されて居る植物の色が一切れ毎にそれ/″\一つも同じものはない。打返されて露出して居る土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれ/″\に違つた色のニュアンスがある。それ等の可也に不規則な平面的分布が透視法《パースペクチーヴ》といふ原理に統一されて、其處に美しい幾何學的の整合を示して居る。此等の色を一つ取りかへても、線を一つ引き違へても、もう駄目だといふ氣がする。
 十歳位の男の子が二人來て後の方で見て居た。「いゝねえ」「いゝ色だねえ」などゝ云つて居るのが矢張り子供らしい世辭のやうに聞こえた。遠慮深い小さな聲で云つて居るのであつたが流石に昨日の大宮の車夫とはちがつて、畫の中の物體を指摘したりしないで「色」を云つたりする處がそれだけ新しい時代の子供であるのかも知れない。
 此處はいゝ加減に切上げて丘の上の畑の中を歩いた。黍を主題にしたのが一枚描き度かつたがどうも工合のいゝ背景が見付からなかつた。同じ畑の中を何遍も往復して居るのを少し離れた畑で働いて居た農夫が怪しんで居るやうで少し氣が引けた。自分が農夫になつて見た時に此の繪具箱をぶら下げて歩いて居る自分が如何にも東京ののらくら[#「のらくら」に傍点]者に見えるので心細かつた。とう/\鐵道線路の傍の崖の上に腰かけて、一枚ざつとどうにか書き上げてしまつた。
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