寫生紀行
寺田寅彦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)題目《テーマ》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)室内の「|死んだ自然《ナチュール・モルト》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)乘り※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]す

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こせ/\した
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 去年の春から油畫の稽古を始めた。冬初め頃迄に小さなスケッチ板へ二三十枚、六號乃至八號の畫布へ數枚を描いた。寒い間は休んで今年若葉の出る頃から此の秋迄に十五六枚か、事によると二十枚程の畫布を塗り潰した。此等のものゝ大部分はみんなうちの庭や建物の一部を寫生したものである。
 靜物も描かない譯ではなかつた。併し花を活けて寫生しようと思ふとすぐに萎れたり、又此れに反して勢のいゝのは日毎の變化が餘りにはげしくて未熟なものゝ手に合はなかつた。壺や林檎も面白くない事はないが、折角「生きた自然」の草木が美しく、其れに戸外が寒くなくて好い時候に、室内の「|死んだ自然《ナチュール・モルト》」と首引をするのも勿體ないやうな氣がした。靜物乃至自畫像などは寒い時の爲に保留するといふやうな氣もあつて、暖い内はなるべく題材を戸外に求める事に自然となつてしまつた。尤も戸外と云つても唯庭をあちらから見たり此方から見たり、或は二階か近所の屋根や樹の梢を見た處など、もしこれが本當の畫家ならば始めからてんで相手にしないやうなものを、無理に拾ひ出し、切り取つては畫布に塗り込むのであつた。それだから、どの繪にもどの繪にも同じ四つ目垣の何處かの部分が顏を出して居たり、同じ屋根が何處かに出つ張つたりして居る事になるのは免れ難い。
 其れでも私に取つては矢張面白くない事はなかつた。例へば四つ目垣でも屋根でも芙蓉でも鷄頭でも、未だ嘗て此れで稍滿足だと思ふやうに描けた事は一度もないのだから、いくら描いてもそれはいつでも新しく、いつでもちがつた垣根や草木である。恐らく一生描いて居ても此等の「物」に飽きるやうな事はあるまいと思ふ。描く事には時々飽きはしても。
 展覽會などで本職の畫家の描いた繪を見ると、美しい草木や景色や建築物やが惜氣もなく材料に使はれて居る。今の自分から見ると此等の畫家は實に羨ましい有福な身分だと思ふ。世の中に何が贅澤だと云つて、此のやうな美しく貴重な自然を勝手自在に我物同樣に使用し時には濫費してもいゝと云ふ、此れ程の贅澤は少ないと思ふ。此れに匹敵する贅澤は恐らく唯讀書位のものかも知れない。
 そんな繪を見る度に、屹度自分も門から外へ出て描いて見たくなるのである。一歩門を出さへすれば、つい其處の路地にでも川岸にでも電車停留場にでも、兎に角うちの庭とは比較にならない程いゝ題材が、勿體ないやうに無雜作に、顧みられずにころがつて居る、わざわざ旅費を出して幾日も汽車を乘り※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]す必要などはないやうに思はれる。しかしどうも此の東京の街頭に畫架を据ゑて、往來の人を無視してゆつくり落着いて、目を細くしたり首をひねつたりする勇氣は――やつて見たら存外あるかも知れないが、考へて見ただけではどうもなささうに思はれる。せめて郊外へでも行けばさういふ點でいくらか工合のいゝ場所があるだらうと思つたが、併し一方で又餘り長く電車に乘り、又重いものをさげて長途を歩るくのは今の病氣に障るといふ掛念があつた。
 今年の秋になつて病氣の工合が大分よくなつたし、醫者も許し又すゝめてくれたので、何處かへ試しに行つて見ようと思ふと、生憎なもので時候外れの霖雨がしばらくつゞいて、中々適當な日は來なかつた。やつと天氣がよくなつて小春の日光の誘惑を感ずる頃には、子供が病氣になつて居てどうもさういふ心持になれなかつた。
 十月十五日。朝餘り天氣が朗らかであつたので急に思ひ立つて出掛ける事にした。此間M君と會つた時、いつか一緒に大宮へでも行つて見ようかといふ話をした事を思ひ出して、兎に角大宮迄行つて見る事にした。繪具箱へスケッチ板を一枚入れて、其れと座蒲團代りの古い布切れとを風呂敷で包み隱したのを抱へて市内電車で巣鴨迄行つた。省線で田端迄行く間にも、田端で大宮行の汽車を待つて居る間にも、眼に觸れる凡てのものが今日に限つて異常な美しい色彩で輝いて居るのに驚かされた。停車場の燻ぶつた車庫や、ペンキのはげかゝつたタンクや轉轍臺のやうなもの迄も、小春の日光と空氣の魔術にかゝつて名状の出來ない美しい色の配合を見せて居た。其れに比べて見ると、そこらに立つて居る婦人
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング