十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里の新開町を通つて町はづれに出た。戰爭の爲に出來たらしい小工場が到處に小規模な生産をやつて居る。兎も角も自分の子供の時にはみんな貴重な舶來物であつた品物が、ちやんと此處等のこんな見窄《みすぼ》らしい工場で出來て綺麗なラベルなどを貼られて市場に出てくるのであらう。其れだけでも日本がえらくなつたには相違ない。此れでもし世界中の他の國が昔の儘に「足踏」をして、日本の追付くのを待つて居てくれたら嘸いいだらう。
 町はづれに近く青いペンキ塗りの新築が目に付いた。それを主題にしたスケッチを一枚描かうと思つて適當な場所を搜して居ると、ちやんとした本物の畫學生らしいのが二人、同じ「青い家」を取入れて八號位の畫布を描いて居るのに出合つた。一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝に架つた板橋を使つて居た。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色つぽい調子が目に付いた。
 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝の崖の縁に坐つて溝渠と道路のパースペクチーヴを眞中に入れたのを描いた。近處の子供等が入り代り何人となく覗きに來た。此邊の子供には大分專門的の知識があつて「チューブ」だの「パレット」だのといふ言葉を云つて居るのが聞こえた。そして浦和邊の子供とは凡ての質が違つて居た。
 歸りに、腰に敷いて居た大きな布片の塵を拂はうとした拍子に取落した。それが溝の崖のずつと下の方に引つかゝつて容易には取り上げる事が出來ないので、其儘にして歸つた。此の布切れがやつぱり今でも引つかゝつて居るかも知れない。此日かいた繪を見ると、繪の下の方に此の布切れがぶら下つて居るやうな氣がして仕方がない。人殺しをした人間の或る場合の心持は何處か此れと似たものがあるのかも知れない。(中略)

 十月廿九日、土曜。王子電車で小臺の渡迄行つた。名前だけで想像して居た此の渡場は武藏野の尾花の末を流れる川の岸の淋しい物哀れな小驛であつたが、來て見ると先づ大きな料理屋兼旅館が並んで居る間にペンキ塗りの安西洋料理屋があつたり、川の岸にはいろんな粗末な工場があつたり、そして猪苗代湖の水力で起した電壓幾萬幾千ボルトの三相交流が河の高い空を跨いで居るのに驚かされた。
 先月からの雨に荒川が溢れたと見えて、川沿の草木はみんな泥水をかむつたまゝに干上つて一樣に情ない灰色をして居た。全色盲の見た自然は或はこんなものだらうかといふ氣がして不愉快であつた。
 高壓電線の支柱の處迄來ると、河から直角に掘り込んで來た小さな溝渠があつた。此れに沿うて二條のトロの鐵軌が敷いてあつて、二三町距てた電車通の神社の脇に通じて居る。溝渠の向側には小規模の鐵工場らしいものゝ廢墟がある。永い間雨曝しになつて居るらしい鐵の構造物はすつかり赤錆がして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示して居る。煙突なども倒れかゝつたまゝになつて何となく荒れ果てた眺である。此の工場の爲に掘つたかと思はれる裏の溜池には掘割溝から河の水を導き入れてあつた。其の水門が崩れた儘になつて居るのも畫趣があつた。池の對岸の石垣の上には竹藪があつて、其の中から一本の大榎が聳えて居るが、其の梢の紅や黄を帶びた色彩が何とも云はれない美しい。樹の影には他の工場の倉庫らしい丹塗りの單純な建物が半面を日に照らされて輝いて居る。其の前には廢工場の汀に茂つた花薄が銀のやうに光つて居る。
 溝の此方に畫架を据ゑて對岸の榎と赤い倉庫と薄との三角形を主題にして描き始めた。
 描いて居るすぐ傍には新しい木の香のする材木が積んであつた。又少し離れた處には大きな土管がいくつも砂利の上にころがしてあつた。私が其處へ來る前から、中學の一年か二年位と見える子供が唯一人材木の上に腰をかけて居たが、私が描き始めると傍へ來て大人しく見て居た。そして何時迄も其處を離れないで見て居るのであつた。
 其内に土方のやうなものが二三人すぐ背後の方へ來て材木の上に腰かけて何かしきりに話し合つて居た。誰か其處に來る筈の人――それは多分親分か何かゞ未だ來て居ないのを待遠しがつて噂をして居るらしかつた。傍に「繪を描いて居る男」などは全で問題にならないらしい程熱心に話合つて居た。
 其内に荷馬車の音がして大勢の人夫がやつて來て、材木を轉がしては車に積み始めたので、私はしばらく畫架を片よせて避けなければならなかつた。そこで少し離れた土管に腰をかけて煙草を吸ひながら描きかけの繪の穴を埋める事を考へて居た。
 人夫の中には繪を覗きに來るものもあつた。そして色々人を笑はせる心算らしい粗暴な或は卑猥な言語を並べたりした。「あの曲つた煙突をかくといゝんだがなあ」などゝいふ者もあつた。「文展へ行つて見ろ、島[#「島」に傍点]村觀山とか寺岡[#「岡」に傍点]廣業とか、あゝいふのはみんな大家[#「大家」に傍点]だ
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