狗と劒術をやつて居るのがあつた。其の人形の色彩から何からが何とも云へない陰慘なものである。此の小屋の上に聳えた美しい老杉までが其爲に物凄く恐ろしく無氣味なものに感ぜられた。何の爲にわざ/\こんなものが作つてあるのか全く分らない。
 秋の日が段々低く落ちて行つた。餘りゆる/\して居ては、折角此處迄來たのに一枚も描かずに歸る事になりさうなので、行き當り次第に並木道を左へ切れて行つて、そこの甘藷畑の中の小高い處に兎も角も腰をかけて繪具箱をあけた。何となしに物新しい心のときめきと云つたやうなものを感じた。それは子供の時分に何か長く欲しがつて居た新しい玩具を手に入れて始めて其れを試みようとする時、或は何かの研究に手を付けて、始めて新しい結果の曙光が朧に見え始めた時に感じるのと同じやうなものであつた。天地の間にあるものは唯向ふの森と家と芋畑とそして一枚のスケッチ板ばかりであつた。
 向ふの小道を稀に百姓が通つたが、わざ/\自分の處迄覗きに來る人は一人もなかつた。
 どれだけ時間が經過したか丸で分らなかつた。唯律儀な太陽は私にかまはず段々に低く垂れ下つて行つて景色の變化が餘りに急激になつて來るので、いゝ加減に切り上げてしまはなければならなかつた。輕く興奮してほてる顏を更に強い西日が照りつけて、丁度酒にでも微醉したやうな心持で、そしてからだが珍しく輕快で腹がいゝ工合に空つて居た。
 停車場迄來ると汽車はいま出た計りで、次の田端停り迄は一時間も待たなければならなかつた。構外のWCへ行つて其處の低い柵越しに見ると、丁度其の向側に一臺の荷物車があつて人夫が二人其の上にあがつて材木などを積み込んで居た。右の方のバックには構内の倉庫の屋根が黒く聳えて、近景に積んだ米俵には西日が黄金のやうに輝いて居り、左の方の澄み通つた秋空に赤や紫や色々の煙が渦卷き昇つて居るのが餘りに美しかつたから、いきなり繪具箱を柵の上に置いてWCの壁にもたせかけ大急ぎのスケッチをしようとした。板は唯一枚しかなかつたから、さつきの繪の裏へ極めて大まかに描き始めた。
 場所が場所だけに見物が段々背後に集まつて來た。車夫も來れば學生も來て居るやうであつた。しかし大急ぎで此の瞬間の光彩を攫まうとして藻掻いて居る私には、とてもそんな人達にかまつて居るだけの餘裕はなかつた。それでも人々の言葉は時々耳にはひる。私が新しくブラシを下す度に、「烟だよ」とか「電柱だよ」とか一々説明してくれる人もあつて、何だか少し背中や頸筋の邊がくすぐつたいやうな氣持もした。さういふ人の同情に酬いる爲には私の繪がもう少し人の目にうまく見えなければ氣の毒だと思ふのであつた。
 ほんの大體の色と調子の見當をつけた計りで急いで繪具箱を片付けてしまつた。さてふり返つて見るともう誰も居なかつた。人々の好奇心の目的物はやつぱり此の私ではなくて「繪を描いてる何處かの人」であつたのである。此分なら東京の町中でもどうやら寫生が出來さうな氣もした。
 往きに一緒であつた女學校の一團と再び同じ汽車に乘り合せたが、生徒達は往きとは丸で別人のやうに活溌になつて居た。あの物靜かな唱歌はもう聞かれなくなつて、賑かな寧ろ騷々しい談笑が客車の中に沸き上つた。小さなバスケットや信玄袋の中から取り出した殘りものゝ鹽煎餅やサンドウイッチを片付け[#「片付け」に傍点]て居た生徒達の一人が、さういふものゝ包紙を細かく引き裂いては窓から飛ばせ始めると、風下の窓から手を出して其れを取らうとするものが幾人も出て來た。窓際に坐つて居た若い商人風の男も一緒になつて其のやうな遊戲を享樂して居た。此の暖い小春の日光は矢張り若い人達の血のめぐりをよくしたのであらう。此のやうな血のめぐりのいゝ時に、もし本當の教育、人の心を高い境地に引き上げるやうな積極的な教育が施されたら、どんなに有效な事であらう。
 元氣のいゝ人達の中には少數の沈んだ顏もあつた。喧嘩でもしたのかハンケチを顏に押しあてゝ泣いて居るのもあつた。此れも小春の日光の效果の一面かも知れなかつた。
 途中から乘つた學生とも職工とも付かぬ男が、ベンチの肱掛けに腰を下して周圍の女生徒にいろんな冗談を云つて笑はして居た。「學校は何處……小石川?、○○? △△?……」などゝ女學校の名前らしいものを列擧して居たが生徒の方では誰もはつきりした答を與へないで唯笑つて居た。どうして小石川といふ見當をつけたかゞ私には不思議に思はれた。それぞれのエキスパートが品物の産地を云ひ當てるやうに、此の男には矢張り特別な眼識が具はつて居るかと思はれた。さう云はれると成程何となく小石川らしくも思はれない事はなかつた。
 田端へ着くともういよ/\日が入りかけた。夕陽に染められた構内は朝見た時とは丸でちがつた更に/\美しい別の繪になつて居た。數多い展覽會の繪
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