なってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によって憤怒《ふんぬ》の緊張は緩和され、そうして自己を客観することのできるだけに余裕のある状態に移って行くのである。そうしてかわいいわが子を折檻《せっかん》しなければならないわが身の悲運を客観するときにはじめて泣くことができるらしい。
 芥川竜之介《あくたがわりゅうのすけ》の小品に次のような例がある。
 山道のトロッコにうっかり乗った子供が遠くまではこばれた後に車から降ろされただ一人取り残されて急に心細くなり、夢中になって家路をさしていっさんに駆け出す。泣きだしそうにはなるが一生懸命だから思うようには泣けない、ただ鼻をくうくう鳴らすだけであった。やっとわが家に飛び込むと同時にわっと泣きだして止め度もなく泣きつづけるのである。
 小さな子が道でころんですねや手のひらをすりむいても、人が見ていないと容易には泣かない、だれかが見つけていたわるとはじめて泣きだす、それが母親などだと泣き方がいっそうはげしい。
 おとなでもいろいろなふしあわせを主観して苦しんでいる間はなかなか泣けないが、不幸な自分を客観し哀れむ態度がとれるようになって初めて泣くこと
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