が許されるようである。
こういうふうに考えてくると流涕《りゅうてい》して泣くという動作には常に最も不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴なっていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われる。
うれしい事は、うれしくないことの続いたあとに来てはじめてうれしさを充分に発揮する。このように、遂げられなかった欲望がやっと遂げられたときの狂喜と、底なしの絶望の闇《やみ》に一道の希望の微光がさしはじめた瞬間の慟哭《どうこく》とは一見無関係のようではあるが、実は一つの階段の上層と下層とに配列されるべきものではないかと思われる。
この流涕の快感は多くの場合に純粋に味わうことが困難である。その泣くことの原因は普通自分の利害と直接に結びついているのであるから、最大緊張の弛緩《しかん》から来る涙の中から、もうすぐに現在の悲境に処する対策の分別が頭をもたげて来るから、せっかく出かけた涙とそれに伴なう快感とはすぐに牽制《けんせい》されてしまわなければならない。
そういう牽制を受ける心配なしに、泣くことの快感だけを存分に味わうための最も便利な方法が
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