景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の光の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分自身の姿をはっきり客観した、その瞬間に思いもかけず熱い涙がわくように流れ出した。」
 フランス映画「居酒屋」でも淪落《りんらく》の女が親切な男に救われて一│皿《さら》の粥《かゆ》をすすって眠った後にはじめて長い間かれていた涙を流す場面がある。「勧進帳」で弁慶《べんけい》が泣くのでも絶体絶命の危機を脱したあとである。
 こんな実例から見ると、こうした種類の涙は異常な不快な緊張が持続した後にそれがようやく弛緩《しかん》し始める際に流れ出すものらしい。
 うれし泣きでも同様である。たいてい死んだであろうと思われていたむすこが無事に帰ったとか、それほどでなくとも、心配していた子供の入学試験がうまく通ったというのでもやはり緊張のゆるむ瞬間に涙が出るのである。
 頑固親爺《がんこおやじ》が不幸むすこを折檻《せっかん》するときでも、こらえこらえた怒りを動作に移してなぐりつける瞬間に不覚の涙をぽろぽろとこぼすのである。これにはもちろん子を哀れみまた自分を哀れむ複雑な心理が伴
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