る。これと似た経験はおそらく多数の人がもち合わせていることと思われる。
 テニスンの詩「プリンセス」に「戦士の亡骸《なきがら》が運び込まれたのを見ても彼女は気絶もせず泣きもしなかったので、侍女たちは、これでは公主の命が危ういと言った、その時九十歳の老乳母《ろううば》が戦士の子を連れて来てそっと彼女のひざに抱きのせた、すると、夏の夕立のように涙が降って来た」というくだりがある。
 以下はある男の告白である。
「自分が若くて妻をうしなったときも、ちっとも涙なんか出なかった。ただ非常に緊張したような気持ちであった。親戚《しんせき》の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸《いがい》を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭《どまんじゅう》の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていたときに、今まで吹き荒れていた風が突然ないだかのように世の中が静寂になりそうして異常に美しくなったような気がした。山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた
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