の老人もなくなって後に、そのむすこが自分の家庭をもつようになって、そうして生活もやや安定して来たころのある年の正月|元旦《がんたん》の朝清らかな心持ちで起床した瞬間からなんとなく腹の立つような事がいろいろ目についた。きれいに片付いているべき床の間が取り散らされていたり、玄関の障子が破けていたり、女中が台所で何か陶器を取り落としたような音を立てたり、平生なら別になんでもないことが、その元旦に限ってひどく気になり、不愉快になり、やがて腹立たしく思われて来るのであった。その一方ではまた、きょうは元旦だから腹を立てたりしてはいけないという抑制的心理が働いて来る、そうするとかえってそれを押し倒すような勢いで腹立たしさが腹の底から持ち上がって来るのであった。その瞬間にこの男は突然に、実に突然になくなった父のことを思い出してびっくりした。そうして、その瞬間にはじめて今までどうしてもわからなかった、昔の父の元旦の心持ちを理解することができたのである。
 それからまた数年たって後のことである。このむすこのむすこがある年の正月に何かちょっとしたことがなるべきようになっていなかったと言ってひどくその母や女中
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